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■ 弟子道 其の弐 / ヨハネ6:58~69

August 6, 2016

中世ヨーロッパには騎士道があった。
その精神的支柱は聖書であった。
鎌倉時代から江戸時代に掛けては武士道があった。
こちらの精神的支柱は儒教であった。

ならば新約聖書における弟子道はどうだろう?
こちらは騎士でもなければ武士でもない。
生涯、弟子であって師ではない。
キリストの僕であって、主人ではない。
だから、キリストの弟子に徹底して生きることである。
支柱はキリスト・イエスである。
他に目指すものなどない。
目指すはキリストの弟子を養い育てることのみ。

キリストの弟子を養育するために必要なものは?
キリストという方を知ること、のみである。
栄光も栄誉も無い。
だからこそ、弟子に成り手がいないのか?
かも知れない。
弟子の前には常にイエスがおられる、それがすべてである。

キリスト者としては目標が実にシンプルで明快だ。
自分云々を考えないのだから、ある意味非常に気楽である。
イエスさまだけを見ていればよい。
他人の目と口を気にする必要など全くない。
つまり神だけを見て生きる、である。

マタイ28書の最後にイエスの「大宣教命令」と教会が位置づけた、言葉がある。
「あなた方は出て行って、すべての国の人々を弟子(キリストの)としなさい。バプテスマを授け、わたし(イエス)が命じておいたすべてのことを守り行うように、彼らに教えなさい。」
これは大宣教命令と言うよりも「キリストの弟子養育命令」だと思う。

クリスチャンという呼び名は「あいつらはイエスにそっくり、からきしイエスに染まった様な連中だ。生き方考え方、あいつ等はキリストのやから(輩)だ。」と、シリヤはアンテオケの町の人達から呼ばれたのが最初である。
良い人、正しい人、信頼される人、クリスチャンらしい人、これらは目標ではない。
目標ではないが、御旨なら主がそれを為してくださるだろう。
イエスと生きる人生の結果として、である。
だから目標ではない。
目標は日々、イエスに生きること。

イエスがいわれた。
「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」ヨハネ6:57
これを聞いたイエスの弟子達が呟いた。
「何と酷い言葉だ。こんな言葉を誰が聞いていられようか。」
そして彼等はイエスの前から去って行った。

彼らは、言葉の表面だけなぞってイエスを理解したと考え、真理は悟れなかった。
この場面、それまでイエスを慕ってついて来た者達の多くが、イエスを諦めて立ち去った。
果たして、以降の時代の中で、どれ程の人々が同じようにしてイエスを諦め、教会から去って行ったのだろう。
人々がイエスを知ったから去ったのではない。
イエスを知りきれなかったからである。

イエスは使徒達を振り向いていわれた。
「まさか、あなた方も離れたいと思うのではないでしょう。」

私は昔、クリスチャンになってしばらくの間、本当にイエスから離れたいと思った。
来た道を間違った、と思った。
道を戻れるものなら、戻りたいとも思った。
そうやって悶々と過ごした時間は短くはなかった。
だが、振り返っても戻る場所は無かった。
あのモーセの様にエジプトの富と栄光に、永遠の価値を見ることが出来なかった。
モーセが戻ったのは神の民と苦しむ道だった。
結局、私が戻ったのは聖書とキリストの前だった。

ペテロがイエスに答えている。
「主よ、私たちが誰のところに行きましょう。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。」

そう、幾らこの世に未練があっても、その先に永遠は無い。
キリストに生きる道だけが神の国、永遠へとつながっている。
この世の楽しみ、この世の宝に埋もれようとも、その先に道は無い。
今、という時の先に何も無い、のである。
人生でイエスに見つけられた者、イエスに出会った者は、この世の宝に比較出来ない程の祝福を手にしたのである。
どんなことがあっても、それを手から放してはいけない。
キリストだけが永遠だから。

 

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