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■唯一神/創世記27:22~46

聖書の神は唯一神である。

複数の神々ではない。

その理由、主は生きておられる方である。

人間は70年、80年、または100歳を超えても生きる時代であるが、間違いなく死ぬ。

神は永遠の方であるから死は無関係である。

生ける神と生きる人間。

だが、これだけでは神の意図に添っているのではない。

人が肉体的に生きていても、霊性の下で、霊的に生きなければ、両者に意志の疎通は不可能である。

聖書の神に出会い、キリストに出会ってこそ、人は唯一神を知る。

キリストだけが神に至る道であり、キリストに至る。

そこに至ってこそ、人は己の生と死、人生に関するすべての意味を知る。

そして、神は唯一神であられたことを知る。

人は神々を作り、信奉し、今もなお作っているが、人を造られたのは唯一神である。

人間にとって最も不幸なことは、クリスチャンになっても人は時として、己を神としてしまうことだと思う。

唯一神は或る意味、多面性をもっておられる。

創造主であられ、救い主であられ、助け主という位置をもつが、神は唯一の神である。

つまり多面性とは働きに於いて、存在の仕方と有りようであっても、神は唯一のお方である。

神は御霊の主である。

人の目に見えない方である。

人間は唯一神の前に戸惑っている。

特に日本人は・・・

何故なら日本人は余りに多くの神々を作ってきた為に、いざ拝む神はと考えたとき、唯一に絞りきれない。

八百万(やおろず)とも言える偶像群を作り、祭り上げて来たのが日本人である。

実に器用であると同時に、信仰姿勢の面で柔軟極まりない。

例えば、彫刻師が木を彫り進み完成したとき、彼は木像に魂を吹き込むそうである。

拝み込むのであろうか、そしてその日から木像は単なる木像ではなくなるのだそうだ。

まこと、奇妙で奇怪だが、これが日本の神々である。

石でも木でも、海も山も、湖も川も、そして人間そのものを、人の手と思い、特に恐れと恐れによって、限りなく産み出されたことが、日本文化になった要因でもある。

そして私自身も33歳までは、そういう世界の生き方だった。

魂まで沁み込んだ多神教性の国民は、いきなり唯一神と言われても戸惑うのは当然である。

私自身、それを洗い流すまで幾年も掛かった。

否、今も落ち切れていないかも知れない。

『神道と日本人』(豊田有常恒著)「いいかげんな神々がつくった二千年の行動原理」という本がある。

読みながら、ふと思った。「ああ。私は神道的クリスチャンだ。。。」

日本人の生きる環境、風土、言語、生き方、ありとあらゆる生活面で、影響を及ぼされ続けて来た。

創世記、イサクという人が登場する。

裕福な族長のひとり息子、育ちの良さのせいか、寛容で、おっとりとして柔和な人である。

争いごとを好まず、特に自己主張もせず、平和に暮らす人だった。

やる時はやる、という開拓者的な、お父さんのアブラハムとは大分違った。

しかし、父から受けち継いだ「唯一神の前に生きる」という根本的生き方はぶれていなかった。

イサクに二人息子がいた。

兄のエサウは猟が得意で、野山を駆け巡っては獲物を持ち帰り、父の好む肉料理をご馳走した。

完璧にアウトドア・タイプのエサウは、イサクにとっては将来頼もしい長男であった。

弟息子はヤコブ、名前の語源は「かかと」に通じる。

双子の兄弟、弟は兄を「押しのける」べく、兄のかかとを掴んで生まれて来たのが名の由来。

名前の意味、語根が似ているため、ヤコブという名は「だますひと」という意味につながる。

ヤコブはエサウとは対照的で性質はおとなしく、家の中で暮らす人だった。

母のリベカはヤコブを特に愛していた。

イサクは年老いて目も見えにくくなり、人生の終末期を感じていた。

彼は死が訪れる前に、長子エサウに家督権を渡す儀式に迫られていた。

イサクはエサウに儀式に関わる料理内容を告知し、エサウは野に出掛けて行ったが、その留守中にリベカが考えた裏工作が開始される。

肌の滑らかなヤコブの手首と首に山羊の皮をつけ、エサウに成りすまし、イサクの所へ肉料理と葡萄酒を持って行かせた。

ヤコブの良心は胸騒ぎと自己嫌悪感でざわついたが、漕ぎ出した工作船は既に岸を離れていた。

目の衰えたイサクはヤコブに対し違和感を持ちはしたが、手と首の毛深さに惑わされ、ヤコブに家督権を与える祝福の祈りをした。

「神がおまえに、天の露と地の肥沃、

豊かな穀物と新しい葡萄酒を、お与えになるように。

おまえは国々の民の上に立ち、おまえは兄弟達の主となる。

おまえを呪う者は呪われ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」

祝福の祈りを終えイサクが口づけし、ヤコブが出て行くのと入れ替わりに、エサウが獲物を持ってイサクの前にやってきた。

そのとき初めて、イサクは彼の生涯で最も大きな大失敗を犯したこと気がついた。

父の前で大声をあげて泣く長男エサウ、怒りと畏れに身を震わせて苦悶するイサク。

哀れな父と子、長い時間が過ぎた。

エサウは父の袖に縋ってイサクを揺さぶった。

「お父さん! 祝福は一つしかないのですか・・・、私を、私をも祝福して下さい。。。」

イサクが呻く、「我が子よ、 私はお前のために、 私にいったい何が出来ようか・・・」

生ける神、唯一神の前に生きる民とはこういうことだった。

どんなことでも水に流せる民ではない。

時の流れに流せる憎しみ、悔しさがあったにせよ、主なる神の前に誓ったことは、取り返しも差し戻しも出来ない。

キリストは唯一神である。

神は人間の弱さ、愚かさ、おぞましさのすべてを御身に抱き、背負って、十字架に張り付かれた。

人間が神の前に罪赦され、生きるために、人生を通して祝されると同時に赦され続けなければならない。

それを主は知っておられた。

だから、彼は世に降りられた。

私は今、キリストの贖罪の故に、この身に与えられた神の寛容、忍耐、慈愛を思う時、生きるすべてが主の御愛に由ることを思わないではいられない。

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