Please reload

最新記事

■唯一神/創世記27:22~46

October 30, 2016

聖書の神は唯一神である。

複数の神々ではない。

その理由、主は生きておられる方である。

人間は70年、80年、または100歳を超えても生きる時代であるが、間違いなく死ぬ。

神は永遠の方であるから死は無関係である。

生ける神と生きる人間。

だが、これだけでは神の意図に添っているのではない。

人が肉体的に生きていても、霊性の下で、霊的に生きなければ、両者に意志の疎通は不可能である。

 

聖書の神に出会い、キリストに出会ってこそ、人は唯一神を知る。

キリストだけが神に至る道であり、キリストに至る。

そこに至ってこそ、人は己の生と死、人生に関するすべての意味を知る。

そして、神は唯一神であられたことを知る。

人は神々を作り、信奉し、今もなお作っているが、人を造られたのは唯一神である。

人間にとって最も不幸なことは、クリスチャンになっても人は時として、己を神としてしまうことだと思う。

 

唯一神は或る意味、多面性をもっておられる。

創造主であられ、救い主であられ、助け主という位置をもつが、神は唯一の神である。

つまり多面性とは働きに於いて、存在の仕方と有りようであっても、神は唯一のお方である。

神は御霊の主である。

人の目に見えない方である。

 

人間は唯一神の前に戸惑っている。

特に日本人は・・・

何故なら日本人は余りに多くの神々を作ってきた為に、いざ拝む神はと考えたとき、唯一に絞りきれない。

八百万(やおろず)とも言える偶像群を作り、祭り上げて来たのが日本人である。

実に器用であると同時に、信仰姿勢の面で柔軟極まりない。

例えば、彫刻師が木を彫り進み完成したとき、彼は木像に魂を吹き込むそうである。

拝み込むのであろうか、そしてその日から木像は単なる木像ではなくなるのだそうだ。

まこと、奇妙で奇怪だが、これが日本の神々である。

 

石でも木でも、海も山も、湖も川も、そして人間そのものを、人の手と思い、特に恐れと恐れによって、限りなく産み出されたことが、日本文化になった要因でもある。

そして私自身も33歳までは、そういう世界の生き方だった。

魂まで沁み込んだ多神教性の国民は、いきなり唯一神と言われても戸惑うのは当然である。

私自身、それを洗い流すまで幾年も掛かった。

否、今も落ち切れていないかも知れない。

 

『神道と日本人』(豊田有常恒著)「いいかげんな神々がつくった二千年の行動原理」という本がある。

読みながら、ふと思った。「ああ。私は神道的クリスチャンだ。。。」

日本人の生きる環境、風土、言語、生き方、ありとあらゆる生活面で、影響を及ぼされ続けて来た。

 

創世記、イサクという人が登場する。

裕福な族長のひとり息子、育ちの良さのせいか、寛容で、おっとりとして柔和な人である。

争いごとを好まず、特に自己主張もせず、平和に暮らす人だった。

やる時はやる、という開拓者的な、お父さんのアブラハムとは大分違った。

しかし、父から受けち継いだ「唯一神の前に生きる」という根本的生き方はぶれていなかった。

 

イサクに二人息子がいた。

兄のエサウは猟が得意で、野山を駆け巡っては獲物を持ち帰り、父の好む肉料理をご馳走した。

完璧にアウトドア・タイプのエサウは、イサクにとっては将来頼もしい長男であった。

 

弟息子はヤコブ、名前の語源は「かかと」に通じる。

双子の兄弟、弟は兄を「押しのける」べく、兄のかかとを掴んで生まれて来たのが名の由来。

名前の意味、語根が似ているため、ヤコブという名は「だますひと」という意味につながる。

ヤコブはエサウとは対照的で性質はおとなしく、家の中で暮らす人だった。

母のリベカはヤコブを特に愛していた。

 

イサクは年老いて目も見えにくくなり、人生の終末期を感じていた。

彼は死が訪れる前に、長子エサウに家督権を渡す儀式に迫られていた。

イサクはエサウに儀式に関わる料理内容を告知し、エサウは野に出掛けて行ったが、その留守中にリベカが考えた裏工作が開始される。

肌の滑らかなヤコブの手首と首に山羊の皮をつけ、エサウに成りすまし、イサクの所へ肉料理と葡萄酒を持って行かせた。

ヤコブの良心は胸騒ぎと自己嫌悪感でざわついたが、漕ぎ出した工作船は既に岸を離れていた。

 

目の衰えたイサクはヤコブに対し違和感を持ちはしたが、手と首の毛深さに惑わされ、ヤコブに家督権を与える祝福の祈りをした。

「神がおまえに、天の露と地の肥沃、

豊かな穀物と新しい葡萄酒を、お与えになるように。

おまえは国々の民の上に立ち、おまえは兄弟達の主となる。

おまえを呪う者は呪われ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」

 

祝福の祈りを終えイサクが口づけし、ヤコブが出て行くのと入れ替わりに、エサウが獲物を持ってイサクの前にやってきた。

そのとき初めて、イサクは彼の生涯で最も大きな大失敗を犯したこと気がついた。

父の前で大声をあげて泣く長男エサウ、怒りと畏れに身を震わせて苦悶するイサク。

哀れな父と子、長い時間が過ぎた。

 

エサウは父の袖に縋ってイサクを揺さぶった。

「お父さん! 祝福は一つしかないのですか・・・、私を、私をも祝福して下さい。。。」

イサクが呻く、「我が子よ、 私はお前のために、 私にいったい何が出来ようか・・・」

 

生ける神、唯一神の前に生きる民とはこういうことだった。

どんなことでも水に流せる民ではない。

時の流れに流せる憎しみ、悔しさがあったにせよ、主なる神の前に誓ったことは、取り返しも差し戻しも出来ない。

 

キリストは唯一神である。

神は人間の弱さ、愚かさ、おぞましさのすべてを御身に抱き、背負って、十字架に張り付かれた。

人間が神の前に罪赦され、生きるために、人生を通して祝されると同時に赦され続けなければならない。

それを主は知っておられた。

だから、彼は世に降りられた。

私は今、キリストの贖罪の故に、この身に与えられた神の寛容、忍耐、慈愛を思う時、生きるすべてが主の御愛に由ることを思わないではいられない。

 

 

 

 

Please reload

ソーシャルメディア
タグから検索
Please reload

アーカイブ
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square

© 2016 by Choufu Minami Crist Church . Proudly created with Wix.com

  • Facebook Social Icon