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■ 伝道・養育、たった一つの魂のために / マルコの福音書5:1~8 (2011-09-11)

September 11, 2011

キリス教会における礼拝と祈りは極自然であり、為されて当然のものである。
では教会の使命とは何か?
 教会の使命は伝道と養育であると思う。
 世の人に福音を伝え、そして救われた魂を育てる。これは使命である。
イエスが3年間で為された不思議なわざと、神の国の訪れを語られた意味は、彼の果たすべき使命でありつつ、そして未来の教会が取り組むべき使命、伝道と養育であった。
 

イエスのガリラヤ伝道地図において非常に短い伝道の旅の記録がある。
それは本当に一時の舟の往復だけの旅だった。
ゲラサ人の村、そこに異常な言動と生活をする男が一人居た。
 力はとても強く、誰もが彼を押さえつけることが出来なかった。
 彼は大声でがなりたて、人々を見かけると威嚇し、そして自分の体を傷つけた。
まさに悪霊が取り付いた様相であった。
 

 彼は舟から降りたイエスを見るや駆け寄って跪き、イエスを礼拝した。
 彼は大声で叫んだ。
 「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
 考えてみると、意味がチグハグである。
イエスを慕いつつ、だが離れてくれ、とは・・・
 

彼はイエスを拝して、親しみを込めて言った。
 「いと高き、神の御子、イエスさま。」
そして言った。「どうか私を苦しめないでください。」
 確かにオカシイのであるが、考えてみるとオカシクはない。
それは普通の人、しかもクリスチャンではないかと錯覚しそうになった。
だが果たして錯覚なのか、そうではないのだろうか。

 

それは私達クリスチャンの姿ではないだろうか。
 毎週礼拝に参加する。それも折角の日曜、早朝からである。
 礼拝だけではない。奉仕もする。心からイエスを拝している。
だが!踏み越えられない線がある。
 求めつつ、しかし、あるラインからは足が半歩も出ない。
まさか言葉にしないが、「どうか、私を苦しめないでください。」と、あたかも心で叫んでいるようだ。

 

 私達殆どのクリスチャンが、イエスに明け渡しきれない荷を担いでいないだろうか。
どうしても自分で持っていたいものをである。
その荷は私達に「人間的な平安」を匂わせている。
いわば、虚構であり、イリュウジョン(幻)なのだ。
なぜ私達はプライド、自尊心、世が価値とするものに拘り続けるのだろうか?
どうしても、それを捨てきれないのである。
しっかりと自分を持っていたいのであろうか。
それは神だけを信頼して不安になるよりも、自の安心を持っていたいからではないだろうか?
まさか、悪霊にとり憑かれたわけでもないのに・・・である。
 

ゲラサ人の男はイエスによって癒されたが、村人は正気に返った男を見て、イエスに出て行って欲しいと願った。
 正気である筈の村人はイエスを追い出し、癒された男はイエスについて行きたいと願い出た。
 結局、イエスの舟の伝道の旅は、たった一人の男の救いのためだけだった。
しかし、それがイエスの旅である。
 彼はいつも一人のために出かけて行かれる。
 昔も、そして今も。
 

2011教会リバイバルは次週に迫った。
 今年、私はリバイバルを待ち望む5週間の「リバイバル・アドベント」(待降節)を持つことを導かれた。
 言葉に表現しきれない素晴らしい祝福をいただいた。
ひたすら主に感謝である。
 

 

 

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