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■ 生々しく生きて、枯れて死ぬのも悪くない / 申命記10:12~22 (2011-01-30)

旧約聖書が語る神さまと、新約聖書の教える神さまが同じ方だと思えないときがある。 そう感じる人は決して少なくないであろう。 確かに旧約聖書は律法的である。 だが、旧約の厳しい言葉も、神の愛の迫りゆえと思うと、納得できる。 また、新約の慈愛に富み給うイエスは、私達の罪のために殺され、彼の死の代価のゆえと思うと、聖書すべては一人の神であることが浮かび上がる。

申命記、モーセによって伝えられた神の言葉の集積である。 しかし、神は愛である、という機軸を知っているなら、それは「神の熱い愛の迫り」である。 神は、人間の一生の幸せを誰よりも願っておられる。 両親、伴侶、子供達、ありとあらゆる環境に位置する人々の誰よりも、である。

私達の一生が生き甲斐と目的をもって過ごせるようにと、神はすべての生きる場所に配慮されている。 誘惑と恐れの罠を断ち切り、人が人らしく活き活きと生きるために、「わたしを信頼しなさい」と主は仰せられた。 それは現代のクリスチャン、そしてすべての人々に対しても同様である。

人生なら当然様々な問題や悩みがある。 試練は立て続けにもあるだろう。 それでも祝福された人生となる。 苦しみが無いから祝福があったのではない。 唯一、まことの神を信じ、礼拝して生きるところに祝福が必ず付きまとう。

「生々しい」とは、生き生きとしていて、そこに「生」が存在することを言う。 しかし、人は誰もが死を迎える。 すべてが終わりとなる。肉体は朽ち果て、塵となり灰になる。 だが、魂は生きる。神から新しい体をいただいて。 ならば、生々しく生きて、立ち枯れて死にたいものだ。

子供の頃(昭和28年頃まで)、裏山に登って薪拾いをした。 当時は囲炉裏と釜戸の時代であった。 山には枯れ枝が見当たらないほど、頻繁に人が入っていた。 今とは比べようも無いほど、見事に手入れがされ、どこまで入っても自由に歩けた。 (現在、山は荒れ放題。歩く隙間も無いほどだ。だから獣が町まで入って来る?) 当時、たまに見つける「立ち枯れ」は喜びの的であった。 今、ふと思い出す。 人の死に際、昔見た立ち枯れの様になれないものか。

生きていたときの力を持ったまま。 または今も生きているかの様な雰囲気を持ったまま。 そこに魂の存在はなくとも、抜け殻とは思えない様な・・・ 神と生きた人は、そうなれるような気がした。 人生で何を残した、ではない。 どこまで上り詰めたか、ではない。 本当の神に出会い、その方と共に生きた足跡だけあれば、と思う。

@ある本から・・・ 昔、キリシタン禁制に入ってしばらくした頃、一人の宣教師が密航し渡来した。 彼はちょんまげを結い、着物をまとい、大小の刀を差していたそうだ。 おそらく日本人の格好をすれば、役人の目をかすめられると考えたのであろう。 上陸した場所は屋久島であった。 本来目指した地は九州の鹿児島あたりだったのか。

だが上陸して直ぐに役人に捕らえられ、はるばる江戸まで護送された。 何年も祈り、日本語を覚え、四方八方手を尽くし、人生と命を投げ打って極東の島国へ渡って来たシドッチ神父への報酬は、牢獄での幽閉だけだった。 最後の潜入神父、彼が日本に残した足跡は果たして何だったのか。

唯一、牢獄のシドッチを世話した牢番夫婦が耶蘇の福音を信じて信者になった。 その夫婦が捕らえられたとき、神父は獄の中から二人の名を呼んで叫び続けた。 「よいか、信仰を捨てるな!死を賭しても志を変えるな!」

シドッチが日本に蒔いた種の数は僅かだった。 しかし、死ぬまで幽閉されたにせよ、シドッチは立ち枯れて、天の御国の門が自分のために開くのを見たと思う。 彼をそこまで導いたのは、今日も生ける神、よみがえりのキリスト以外にない。

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