■ レプタ二つの意味 / マルコの福音書12:35~44 (2006-03-05)
我が国の銅貨、それは10円玉である。これを賽銭にしても、整理するのにしかめっ面をしたいのは、寺や神社であろう。しかし、教会の会計係りは違う。1円や5円、10円玉を見ると、それを入れた子供や大人の信仰を感じて温かい思いにかられる。 二千年前のイスラエル、場所は神殿。大勢の金持ちが大金を投げ込んでいた。そこに銅貨二つ投げ込んだやもめの女性がいた。それを見ていたイエスは、敢えて弟子達を引き寄せて言われた。「見なさい。皆は有り余る中から捧げたが、彼女は持っているすべてを投げ入れた。」
当時のレプタ銅貨は一日の労賃の128分の1くらいである。確かに低い。何も知らなければ、思わず心に浮かぶものがある。「何だ、馬鹿にしおって・・・」 だが、一人だけ実情を知っている方がいた。イエスであった。彼女は救われた・・・と私など感じてしまうが、イエスは今も私たちのすべてを見て、察しておられる。 実にプタ銅貨二つが神に栄光を帰したのである。
私は二週ほど礼拝メッセージを休んだ。インフルエンザにかかってしまった。 二週、礼拝を留守にすると、さすがに健康であることに喜びを感じる。増してや、礼拝説教をすることができることは、なんと大きな祝福であろうか。ならば、私の持っているすべてを捧げつくしてもいいのに・・・とまでは考えなかった。つくづく神だけにを信頼していない自分に出会った。それに比べ、明日を神に委ねきってしまった女性はやはり凄い。 人間とは、無ければ無いほど、明日のことを心配するだろうし、あればあったで数年先、数十年先までのお金を心配する。
古い言葉であるが、文語体の聖書がある。そこに書いてあるのは、「このやもめは、その乏しき中より、すべての所有、すなわち己が生命(いのち)の料(しろ)をことごとく投げ入れたり・・・ 彼女の神に対する全幅の信頼が聖書から滲み浮かんでくるようだ。
信じている、と言うのであったら、髪の毛一本でも、爪の先でも言える。しかし、キリストだけに信頼してる、と言える人は少ない。信じると、信頼は違う。信頼は頼ることである。ましてや信頼しきることは更に深い。誰でも如何し様もなくなったら頼るであろうが、そうでなければ1から10まで頼り切ることなど、殆どの人はしないと思う。限界が来た時以外は、信じる段階であり、限界を超えたら神を信頼するといった類ではなかろうか。
つくづく10円玉を眺めて思う。この二つだけで、神の栄光を現すことが出来るなんて、イエスはなんと近いお方であろうか。そして、すべてのものを捧げつくすことは、何と難しいことだろう。