■ 人生に置く石、エベンエゼル / 第一サムエル記7:1~13 (2007-12-30)

私は25歳で小さな工場を開設し、二年後に株式会社とした。 だが、社長とは名ばかりで、実態は単なる作業員であり、事務員であり、使い走りであった。 無いものだらけであった。信用なし、資金なし・・・有るものは借金、若さ、ヤル気のみ。 それから38年間、よくぞ主は私を守ってくさった。 つくづくそう思う。 仮に健康を失ったら、今などない。当然工場も失ったであろう。 命を賭けて・・・なんて、おこがましいが、実際いつも明日に夢を見つつ、今日を頑張って来たことに間違いない。 だが、人間がどれほど頑張っても、たかが知れている。主の憐れみなくして、何ができるだろう。 力を尽くし、思いを尽くした事業であったが、一度だけあきらめた時があった。 それは、三年近く悩んだ末、神学校へ行く決意をしたときだった。 通い出して5年間、私は家業とするその事業を神さまに委ね託した。主が取られるなら、それでもいい、と。 「主がここまで私を守ってくださった」と、昔サムエルはエベンエゼル(助けの石)を置いたと旧約聖書にある。だから、私も年末最後の日に、人生に置きたい石がそれである。

アパ・ルームと言うデボーションブックの12月2日分、こういう言葉が載っていた。 「私達の神への愛が強いとき、神に従うことはそれほど難しくはない。」アーメンである。

従うべき主に従えず、人生の中で幾度も挫折し、神にガッカリし、主に背を向けた。 それでも、主は私を諦めずに傍に居てくださった。だから、今がある。 あなたの人生にも、主は寄り添ってくださった。だから今がある。 神を愛し、神に従うこと以上に、人間にとって尊いことは無いと思う。 自分の力でなく、主がその力をくださるのだ。それを体験したければ、主に従う決心と行動が必要だ。 あなたの人生、主が共におわしますなら、何を恐れるだろう? 先の先、永遠の先まで知っておられ、あなたの幸せと最善を顧み給う方は、あなたのキリストしかいない。

私達クリスチャンは本気で礼拝し、祈る。 最近、ふと考えたことがある。それは「必死」と言うことである。 本気と必死は意味も響きも違う。 私の人生で、何を必死に取り組んだのだろう。 自分が生きる、生活する、事業を守る、成長させ、仕事を守り、達成を願う。必死である。 しかし、主に向かうところ、同じ取り組みをしているだろうか?

必死に聖書のみことばを求め、必死に祈っただろうか? あまり思い出さない。本気であったが、必死には至らなかったと思う。 でも、思い起こせば、教会の会堂用地取得に対する思いと願い、祈りは必死であった。 誰かの救いに対し、必死で祈った記憶もある。 だが、日々の中で、必死に神さまに向かうところ、まだまだ、ぬるい、と思う。 新しい年、もっともっと変らせていただきたい部分である。 そのとき、エベンエゼルの石は幾つも置かれて行くのであろう。 「主は今日も、私を助けてくださった」と。

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