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■ 神の杖を手に / マルコの福音書6:7~13 (2005-05-22)

先ず、この聖書の箇所には「イエスが12弟子を呼ばれた」と書いてある。私達はいかなる奉仕の場所であろうと、イエスに呼ばれたのである。神が呼ばれたから、礼拝の奉仕がある。司会者、賛美のリーダー、聖歌隊、メッセンジャー、献金の係り、礼拝の受付、礼拝後のお茶の用意、すべて神さまに呼ばれたのである。更には、隣り人への伝道、他者への助け、なども同様である。このへんがしっかりしていないと後々、困るのは当人である。自分で自分の足元に石を置き、後で自分がその石に躓いた、なんてことになる。熱心はいいが、神が先にあっての熱心の尊さなのである。決して熱心が先ではない。呼んでくださる方があったからこそ、仕える場があることを覚えたい。

イエスは弟子達を二人一組にして、働きの旅に送り出した。彼らは金も弁当も持たず、ただ一本の杖だけ持って行った。人生もある意味、旅とも言える。だから、あれもこれも必要、と私達は思う。しかし、本当に必要なものは何だろうと考えると、イエスが何も持たせなかった意味が見えてくる。神に遣わされる旅には神が共におられる。神がすべての必要を備えて下さるのだから、自分であれこれ考えることは、神を信用していないことになる。イエスは弟子達にそのことを教えられたのではないだろうか。私達は、人生の旅で多くのものを蓄えるが、やがて来る旅の終わりには、それらの一つも役に立たない。

主イエスは、旅立つ弟子達に杖一本だけの携帯を許された。また、旧約聖書のモーセは同胞をエジプトから救い出すために遣わされたとき、神は彼の最高の武器として、一本の杖だけを与えられた。モーセが家族と共にエジプトに立つ日、出エジプト記4:20はこう語る。・・・モーセは手に神の杖を持っていた・・・ モーセにとって、杖は神が共におられるという証拠であり、確信である。「神が私と共におられる」私達の人生で先ず必要なものは、本当はこれだけなのだが、人間はなかなか満足しない。人生の旅は、必ずしも自分のイメージした年齢で終わるわけではない。人間の命ははかないものだからである。明日の命が100%ある、という考えで私達は生きているが、本当は今から1秒先、誰も知らないのが事実である。そう考えると、本当に大切なのが何で、たいして大切でないものが殆どとなる。もしかしたら、たいして大切でないもののために四苦八苦している私達かも知れない。そういう人生だからこそ、本当に必要なものは、永遠の命を与えたもうキリストがあなたと共にいることだけなのである。

あなたが仮に人間関係に行き詰まった時、必要なものは何か?あなたが他者から許されないときの助けは何か?他者を許せないときの秘訣は何か?それは「神が私と共におられる」ことなのだ。ここのところで、神が人間関係に解決の道を下さる。キリストがあなたと共におられるからこそ「私が悪かった。赦して欲しい」と言える。私達日本人は国民性として個人として、謝るのが下手であり、苦手なのだ。その原因は、根本的に「創造者不在国民」だからではないかと思う。そう言った国民的体質を、私達が知らず知らずの内に共有してしまって来たのではないだろうか。

それではクリスチャンの杖とは何か? 聖書? 教会? 良き師?  否!それは聖霊であると思う。どんな状態に置かれても「神、我と共にある」と言いえるのは、聖霊によるからだ。聖霊が「神、我と共にあり」を自覚させ、信じさせてくれる。このことを世の人は理解出来ない。それは彼等の中に聖霊がおられないからである。ヨハネの福音書はそれを語る。聖霊は聖書を理解させ、みことばが信徒にとって「私の足の灯火」となることを導く。聖霊は助け主、とイエスは呼ばれた。いかなる困難、迷い、絶望の中でも聖霊は「燃えて輝く信仰の火」である。

イエスはインマヌエル=「神、我と共にあり」と呼ばれた。人生に一番必要なものは、この方だけである。そうすれば、そのほかの必要なものは、神が備えてくださる、と聖書は言う。あなたの人生にこの方がおられるだろうか?

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