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■時空を超えて/申命記34:1~12

  • 旧約聖書/申命記
  • 2018年1月7日
  • 読了時間: 4分

毎年晦日から新年へと明けて行く時期になると、私には決まって込み上げる感情がある。

ネボ山の頂上、ピスガの頂から、約束の地を見渡すモーセ、はるかに北から南まで、遠く西の海すなわち地中海から足元に控える死海まで、カナンの地は彼の目にどう映ったのか。

そして迫る死をどの様に受け止めたのか。

イスラエルの民は期待に胸躍らせている中で、なぜ自分だけが・・・

聖書はモーセの心と思いに対して、一言も語っていない。

夢にまで見た故郷は静かに横たわっていた。

400年間エジプトで暮らしたヤコブの末裔は100万にも膨れ上がっていた。

その後、民は40年の荒野の旅を経て、世代は大きく入れ替わっていた。

遂にたどり着いた約束の地は、文字通り目と鼻の先ほどの距離だった。

しかし神はモーセだけを、約束の地に踏み入らせなかった。

そのため主はモーセを山に登らせ、同胞が踏みしめる約束の地を見させ給うた。

そのこと自体、モーセに死が迫ったという証しでもあった。

聖書は言う、「モーセが死んだとき120歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」(申命記34:7)

であるなら、なぜ神はそこでモーセに死を迎えさえたのか。

40年間、この場面を読む度に疑問が残った。

それらしき理由を聖書が書いているにせよ、納得するには程遠い感情が消えなかった。

モーセはさぞかし残念であったろう、無念であったろう。

しかし、いのちの息を支配するは神である。

神がお決めになったのであれば、人は否応なく従わざるを得ない。

クリスチャンも、そうで無い人も同様である。

一年という時間の「先っぽ」に立たされて、今から生きる365日など誰一人想像もつかない。

見たくとも見えないし、見えないから人生は素晴らしい。

そして誰であれ、生きて365日の向こうに辿り着く確証も保証も無い。

当たり前に未来は巡って来る、のではない。

人の明日など手のひら程の確証も無いのだ。

期待に満ちる明日は同時に未知の旅の終わりを用意しているかも知れない。

私自身、そんな思いがネボ山の頂上に立つモーセの宿命にかぶさってしまうのである。

主がモーセに対し、その命の終わりを告げた箇所がある。

荒野で水が尽きた時、民はモーセに激しく詰め寄って彼を責めた。

そのとき主はモーセにいわれた。

「そこの岩に水が出る様に命じよ、そうすれば岩から水が出る。」

いきり立つ民は、モーセに向かって叫ぶ。

「なぜあなたは我々をエジプトから、この荒野に来させたのか。

ここで我々を死なせる積りだろう、此処には何等の果物も穀物もない。水さえ無い。」

モーセは岩の前に立った。そして振り向いて民を睨んで言った。

「逆らう者達よ、さあ、聞け。この岩から私達があなた方のために水を出さねばならないのか。」

モーセは手を挙げ、叫んで杖の先で岩を二度打った。

すると岩から水がほとばしり出で会衆も家畜もその水を飲んだ。

そして主の声がモーセにあった。

「あなたとアロンは私を信ぜず、わたしをイスラエルの前に聖なるものとしなかった。

それゆえあなた方はこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることは出来ない。」

私の耳にも巡り来る主の言葉である。

確かに、それが事実だった。

しかしモーセは神と顔と顔を会わせて語り合うことの出来た、たった一人の人間だった。

彼は40年間、100万の民を率いて荒野を巡り歩いた。

不平不満を言いたい放題の民、金を熔かし偶像を作った民、エジプトに居た方が幸せだったと叫ぶ民の声を聞きながら、朝から晩まで神と民を見比べながら、執り成しながら耐え忍んだ男。

そんな旅のゴールは目の前だった。

遂にこの旅が終わる時、あのヨルダン川を渡れば約束の地だ。

だが、彼は民と共にあそこへ渡りゆくことは出来ない。

この不可解はずっと考えて来た。

きっと神の怒りではない、神の愛がモーセをモアブの地で終わらすことだったのだ、と思った。

川の向こうでも戦いは続くだろう。

モーセよ、あなたはもう十分だ。

だから、この地で安息を得よ、だったのではないか、と思うことにしていたが・・・

今年、この場面に思いを馳せたのは別の見方だった。

やはり違う、神がモーセに対する思いを聖書は敢えて知らせていない。

問題は、仕事として民の為に生きたモーセではなく、イスラエルの為に働いたモーセではなく、神と共に40年を過ごしたモーセ、神の相棒の様なモーセに臨在された主だった。

であるなら、主がモーセを引き留めたのは、主と共なる時とモーセの人生を御手の中に納め包まれた、ということだった。

これこそ、私に納得できる40年の荒野の旅の意味であり、出エジプトの旅だった。

だから、クリスチャンは教会の為にではなく、自分の責任の為ではなく、何かの為、誰かの為でもなく、『主と共に生きた人生』で終わることこそ、主が求められた真の目的だと思う。

仕事云々ではなく、仕事の上におられる方を見上げる人生こそ、神が価値ありとするものと読んだ申命記34章である。

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