■我に躓かぬ者、幸いなり/マタイ11:2~13
バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)は神の導きの下、非常に年老いた両親から生まれた預言者である。
生まれる前から、彼の人生は預言者と決まっていた。
決めたのは創造主である神。
ヨハネの役目、それはキリストを信じて生きる民を前もって清め整えることだった。
そのためには先ず、荒れた世(悔い改めの必要な世)に向かって叫ぶことだった。
ヨハネという人は旧約時代終わりの象徴であり、同時に新約時代始まりの象徴である。
それは律法時代の終わりであり、恵みの時代の始まりだった。
つまり彼は最後の預言者であり、新約時代の表紙に指を掛けた人でもあった。
イエスの御降誕を語るとき、ヨハネを抜かして語ることは出来なかった。
だから、クリスマスが巡ってくる毎年末のキャンドルサーヴィス、イエスよりも必ず先にヨハネが語られる。
ヨハネはこの様に遠い昔、メシヤの来られる時に前もって必ず到来する『声』だった。
彼は世に向かって「罪を悔い改め、神に帰るように。」と叫んだ。
救い主は今、来ている!
彼の声に呼応して人々はヨルダン川へと列を作った。
大勢のユダヤ人が自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたと聖書は言う。
そして遂に30歳のイエスが公衆の前に姿を現されたとき、イエスはヨハネから洗礼を受けられた。
時の王、ヘロデ・アンテパスは自分の罪を指摘したヨハネを怒って獄にぶち込んでいた。
しかし、殺すことには躊躇した。
国民の支持は限りなくバプテスマのヨハネにあったからだ。
丁度、そのころヨハネはイエスに対し、弟子を使いに出し問い合わせている。
「おいでになる筈の方(メシヤ)はあなたですか?それとも私達は別の方を待つべきでしょうか?」
イエスは直接的に答えず、僅かな言葉を彼らに語られた。
「あなた方は行って自分達の見たこと、聞いたことをヨハネに報告しなさい。
つまり今、わたしの周りで何が起こっているか?
目の見えない者が見える様になり、足の萎えた者が歩き、耳の聞こえ、死人がよみがえり、貧しい者には福音がのべ伝えられていることを。」
そして最後にいわれた、『誰でも私に躓かない者は幸いです。』
果たして洗礼者ヨハネはイエスに躓いたのであろうか?
当時、ヨハネは牢に入れられ、行動はまったく不可能。
一方イエスはユダヤの民に声高々に、神への帰属を説法鋭く迫る素振りも見えない。
確かに個人個人への不思議なわざと癒しはしており、神の国に関して話してはおられるが・・・
ヨハネは迷った。
自分が再び解放される日が果たしてやってくるのか・・・
もし此処で死ぬとしたら、自分とイエスの関係は何だったのか・・
事実、この数週間後、ヨハネは牢で首をはねられている(ヨハネ14章)。
果たして人間はキリストに躓かないのだろうか?
躓かないどころか、躓きっぱなしかも知れない。
ユニークな文字である、躓く、という文字。
足が質に取られる=つまづくのである。
質屋体験、若い日の苦い思い出がよみがえった。
私はクリスチャンになって、クリスチャンに躓いた。
そして躓いたのは教会というところ。
大いに躓いた。
牧師に躓き、教会に躓く。
神に躓き、キリストにも躓いた。
イエスが言っておられた「躓きは避けられないが、躓きをもたらす者は忌まわしい・・・」
そう、この世も教会も忌まわしいのである?と、当時は思っていた。
この忌まわしい世に、神の御子が降りたたれたとは、何たる不思議。
だが、よく考えると、人からよりも自分で自分に躓いていたのが、あとから分かった。
人の目のゴミは良く見えるのに、自分の目の梁は何故か見えない不思議。
ただ、この不思議を不思議で無いものだと教えて下さったのは、イエス・キリストその方だった。
私は幾度も躓かせられて、そして幾度も他者を躓かせた。
躓かせられたのは認識するが、躓かせたのはサッパリわからなかったのも不思議。
まあ、今でも躓かせていると思う。
なのに、人はクリスチャンに対しては、時として羨望の目で見ている。
聖い、清い、真実、誠実、表裏なし、常に穏やか、決して怒らない、嘘など口が裂けても言わない、実に難関で無理で不可能である。
だが!そんなことよりも私はイエスと生きたい!と今は言える。
聖人?どこにいるのだろう?
確かに昔はいたかも知れないが、今は?
聖人というより、主の前に正しく生きた人、ということか。
彼らは死んだから聖人と呼ばれたのではないか。
大体が聖人どころか、大いなる罪びだと思うのだが・・・。
確かに聖人を目指した教団も人々もいたのは事実であろう。
しかし、目指した裏には大変なやりくり算段と、難儀が伴ったと思う。
人間とはそういう者だと、ついつい愚痴っている。
創世記のアダムから黙示録の記事まで、幾人の聖人が登場するだろう。
見渡しても先ずいない、のである。
但し、ヤコブの11番目の息子、ヨセフは別格だった。
だが、彼は聖人というよりは、主の前に正しく、そして神に愛されたひとだった。
だから聖人と言って思い当たるのは「ナザレの村のイエスという大工」たった一人である。
果たして神の国に入った人は幾人いるのだろうか?
驚いてはいけない。
神の国に籍をおいた人は数えきれない。
おそらく、彼らは地上では罪びとであったが、神の国に足を踏み入れた途端、天津国びとになったのである。
すべてはイエスを信じた人、救われた人はすべて一人残らず、神の国に入り、天の国の人とされる。
つまり、神の愛によって、力によって、その神を信じて赦されて神の国の人となった。
彼らは、地上で人間らしい生き方、主に愛され、主を愛した人と呼ばれるだろう。
聖人などと決して呼ばれたくないし、呼ばれないし、我々には相応しくもない。
ひたすらキリストを愛し、キリストに愛された、これがすべてなのだ。