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■土塊(つちくれ)のわたし/エペソ3:7~13

幼い時よく泥遊びをし団子作りをした。

土を水でこねて丸めた土だんご。

姿かたちのよく似ているのが「さつま団子」という当時は三時のおやつ。

薩摩芋を薄くスライスし、天日でカラカラに乾かし砕いて粉にする。

それを水でこねて、手で適当な形にし、釜で蒸かすと、非常に地味な甘さだけど美味しい団子になった。

菓子もケーキも勝てない、素朴な団子に砂糖など一切加えてなかった。

戦前戦後、肉体を使う人々の腹の足しには充分だった。

 

子供心に土団子は薩摩団子に思えて見えて仕方なかった。

色も形も同じに見えた。

だが、土団子は煮ても焼いても、蒸かしても食えない。

丁度、私達の様だ。(怒らないで下さい。)

だが、聖書の神はそんなものでさえ、食べること以上の価値あることに用いてくださった。

つまり、尊い方に仕える土の器にして下さった。

つちくれ(土塊)に過ぎない、ひと固まりさえ神は用いられる。

 

思えば、創造主は土地のちりでひとの形を造られ、いのちの息をひとの鼻から吹き込まれた。

そこでひとは生きたものとなった。(創世記2章)

人間は土塊である。

土塊に過ぎない。

しかし、いのちの息を吹き込んで下さった方は生ける神である。

だから、人は生きたのである。

この構図はこれまでも、そしてこれからも変わらない。

人は聖書の神、キリストに出会って、彼を受け入れなければ、いのちの息は吹き込まれない。

 

人は神に帰り(帰属し)、神の下で礼拝し、神の恵みを受けて営みを生きることが一番合っている。

エペソ人への手紙、パウロのことばがある。

「私は、神の働きにより、自分に与えられた神の恵みによって、この福音に仕える者とされました。」

いかがだろう、彼の言葉のひとつひとつを読んで見てわかること。

どれひとつ、何ひとつ、自力で得たものなど無い。

すべて、神の下さったもの、神が下さった恵み、ちから、そして奉仕であって彼が創業者ではない。

置かれたパウロという存在は、神の知恵と力、創造力と恵みによって置かれたに過ぎない。

仰ぎ乞い願わくは、ひたすら全知全能の主を称えることだけである。

この私という元の素材は、文字通り一握りの土塊でしかない。

 

神が土塊に与えられた様々な能力の中で、最も素晴らしいものは?

それこそ信仰という賜物だ。

賜物というのだから、それは神からの戴きものであって、私が労して得たものでも勝ち得たものでもない。

救い然り、祈り然り、すべて神からの賜物である。

つまり人間が誇れる隙間など、蚤の糞ほども無い。

だからこそ、信仰において人と自分を比較すること、妬むこと、見下げること、すべて愚かしく虚しいに尽きる。

プライド、高慢、傲慢は神からの賜物ではない。

生まれ持った肉の性質でしかないが、だからこそ厄介な付き物でもある。

生まれついて持って来たものは、捨てようにも捨てられないのだ。

こういった本性の一部の様なものは、切り離せないから特に面倒。

それらは限りなく本人を悩ませ、生きる時間の中で悪影響を及ぼす。

だからこそ、自分で出来ないから、どうしようもないと諦めないで、創造主により頼もう。

「自分では出来ません。」「もうギブアップです。」「だから、主よ、私を変えて下さい。」

それが良い。

それがすべてだ。

神に賭ければ、神の栄光を仰ぐのはあなたである。

 

パウロという人は凡そ、キリスト伝道に関しては全く不向きな人であり性分だった。

だが、彼はキリストによって造りかえられた最高のサンプルである。

先ず、彼は神の偉大さと、全能の御力を見させられた。

それは頭ではなく、身体と実生活で体験させられるものだった。

キリストはパウロに有無を言わせず、パウロを整え煉り直し、鍛え上げた。

彼の強い部分は、神の強さで鍛えては削り、彼の弱い部分は神の愛で強く覆われた。

誰が昔のパウロ、つまりユダヤ教徒、パリサイびと、サンヘドリン、熱心なキリスト教迫害者のパウロを見て、キリスト福音の伝播旗頭と想像しただろう。

千人に一人、予想もしなかったし、出来なかった。

唯一、神だけがそれを知っておられたのだ。

 

エペソびとへの手紙3:12節

「私達はこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信を持って神に近づくことが出来るのです。」

 

あなたの神を評価し直す時である。

あなたのイエスは物凄い方なのだ。

だが、神の選眼は決して節穴ではなかったのだ。

誰がアブラハムを全人類の祝福の父と思ったか?

誰が、カナンの地を満たす国民が「あのヤコブ」の末裔たちだと予想したか?

誰が世界の小国、地中海に背を削られた様な地から、世界の民を永遠に救うメシヤが現れると予想したのか?

神は敢えて、その地を選び、敢えてあの民を選ばれたのだ。

すべて神の想いと御旨の達成がなるために。

神の存在と栄光を世の民が見上げるために。

すべては神の約束と預言、そして成就にあった。

 

文字通り、最後まで耐え忍ぶ者は救われる、のである。(マタイ10:22)

 

『わたしに聞け。

あなた方の切り出された岩、掘り出された穴を見よ。

あなた方の父アブラハムと、あなた方を産んだサラのことを考えて見よ。

わたしが彼ひとりを呼び出し、

わたしが彼を祝福し、彼を増やしたことを。』

イザヤ書51章

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