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■マンツーマン/ルカ9:23~26

1986年、クリスチャンになって8年、教会のこと、聖書のこと、人間と神、「大体わかったなぁ」と傲慢に構え始めていた頃だった。

「こんなもんかな、教会とは」それでも、毎週礼拝にはきちんと通っていたし、教会学校の奉仕もしていたが、燃えるものは今一つ無かった。

「イエスさまにせよ、こんなもんじゃないの。」と、高を括っていた私に突然飛び込んだ話。

 

何かよく分からないけど、何かのオリエンテーションがあるらしいよ、ということで顔を出してみない?と誘われ、顔を出すくらいならと軽く受け流した。

「分からないだらけ」は疑う心さえ用意させなかった。

 

その「何だか分からない」ことの御蔭で、私の人生は180度激変した。

「何だか分からない」が幸いしたのかも知れない。

あのザアカイだって、いま一分からないイエスを一目、と思っていたのが、とんでも無い結果になった。

神のなさることって、ユニークでユーモアがあって、抵抗する気にもなれないんだなぁと、後になって理解した。

 

それから10か月後、私の中には「イエスの弟子」という言葉がつきまとっていた。

以来30年、イエスは「私の親分」から「私の師匠」へ、そして今は「私の牧者」になってくださった。

彼はいつでもマンツーマンで向かい合って下さる。

イエスは、はるか彼方の神の国におられるのではなく、私の身の周り、心に、内に、常に一緒におられるのだ。

 

35年前、「はい、私はクリスチャンです。」などと滅相もないものだった。

当然ながら「日曜日は教会に行っています。」などとは、口が裂けても言えなかった。

聖書は「座右の書」ではなかった。

でも、日曜日はしっかりとクリスチャンをやっていた。

器用といおうか、二頭の馬の背に立って乗るような人生だった。

それが「キリストの弟子」を意識する者とされたのは・・・

 

キリストが変わったのか?

聖書が変わったのか?

主は幾つもの分岐点を私の人生に置かれ、一つずつであるが「キリストが正しい」「聖書が正しい」「問題は人間の罪である」という道を選ばせた。

結果、人間とは各もマイペース、自己中心、保身的、利己的、我儘、傲慢であるとつくづく思った。

引き替えて、イエスはいつも謙遜で、他者中心で、アガペー満載の救い主であられた。

以来、私は確実に彼に惚れ込んだ。

 

やがて主は私に牧師の道を問われた。

但し、それだけは絶対に吞みたくない盃だった。

苦手で嫌いで考えただけで後ずさりしたくなる職だった。

二歩進んで三歩後退の様な時間は4年も続いた。

 

そしてある日、私は明確に主の御招きを断る決心をした。

1対1でイエスに向かい合って5年間、だからこその固辞だった。

いつもの黙想の時間、いつものコーヒータイム、聖書を真ん中にして主に向かい、主の御期待を辞退させていただくことだった。

これ以上、つきまとって欲しくなかったし、嫌は嫌であり、無理は無理なのである。

確かに有り難いものではあるが、絶対背負いたくない、重くて厄介なのである。

腹を括って祈った。

「すみません、主よ、私は辞退します。どうか、他の人を探してください。私より、はるかに相応しい人は沢山おります。宜しくお願いします!」

それは私の人生で一番真っ当で切羽詰った祈りだった。

目の前のイエスに投げたボールは、確かにバウンドして向こうへ行った。

 

今まで無いくらいにすっきりして、肩の荷が下りた感じがして、息を吐き出した瞬間、ボールは壁にバウンドして帰ってきた感じがした。

続いて私の心に響く声があった。

『あなたの様な、ちっぽけなひとりの人間を、このわたしが造りかえることさえ出来ないと思うのか!』

 

神は全知全能、常日頃私の神へのイメージがそれだった・・

私の祈りは尾ひれをつけて、主に届いたのだ。

だが、主は投げ返された、御ことばを添えて。

「駄目なんですか、諦めてくれないのですか・・」

胸が熱くなり、涙がこみ上げた。

主の熱い愛に砕かれた。

 

イエスは1対1で、マンツーマンで向かい合ってくれていたのに・・

逃げて逃げたのに主は諦めなかった。

「分かりました、あなたが共に居て下さるから・・・」

 

そこから三年、そして更に5年後の1994年春、紆余曲折の人生とブレブレの道だったが、私は牧師という場所へ主によって導かれた。

以来24年間、踏み込んだ所は石ころだらけの荒野の筈だったが、緑と花の咲き乱れるシャロンの丘にとって代わり、ガリラヤ湖を囲む丘でイエスを仰ぎ、ベテルの野では独り寝のヤコブを眺め、パダン・アラムから帰郷するヤコブの大家族に苦笑いし、そして彼らを嗣業として愛し背負うヤハウェの御姿に、文字どうり背負われるは我が身であった、と実感した。

 

主を信じる人にはMan to Man で向かい合い、共に生き、語ってくださるキリスト。

イエスが生きるから私が生きる。

イエスが死んだから、私が生きる。

イエスが死んだから、私の罪は死んだ。

イエスがよみがえられたから、今の私がある。

イエスがすべてである。

イエス以外に神はない。

彼こそキリスト(救い主)。

彼がいなければ、生きる術(すべ)なし。

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