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■1×無限大、キリストに埋没/マルコ12:41~44

聖書(神のことば)はいつの時代でも人間達に拒まれて来た。

旧約の預言者達も世の人々から蔑まれ、否定され、迫害された。

中国に共産党時代が始まる頃、聖書は片っ端から焼かれ、牧師たちは徹底的に追放された。

日本に於けるキリシタン迫害の時代、宣教師は殺され、信徒たちは測り知れない程に迫害された。

権力(人間界)は信者を迫害し追い散らし、キリストを憎み、世の中から一掃すべく、あらん限りの手を尽くし、完全に勝利したかに見えたが、聖書と聖徒を地上から完全に消滅さることは出来なかった。

実に、この世は聖書と神に対して挑み続けて来たが、勝ちきることは出来なかったのである。

人間は勝てると思い込んで挑戦したが、遂には負けてしまった。

或る意味、人間は「大いなる勘違い」をした、のである。

そして今尚、人間は勘違いをしていると思う。

  1. 人間は人間の道理で聖書と聖書の神を考えている。

  2. すべての人間は基本的に、自分は間違っていないという確信を捨てられない。

  3. 信仰とは人間が造るものだと考えている。

  4. 現代もなお、人々は聖書の神こそ時代錯誤も甚だしいと思っている。

イエスはユダヤ人に向かって嘆いておられた。

『あなた方は大変な思い違いをしている。』マルコ12:27

いつもそうだと思う。

私達人間は思い違いをしている・・・

世の道理、つまりこの世の物差しと巻尺で聖書の神を計っている。

聖書を知って神を非難するのでなく、感覚的に生理的に「聖書と神を嫌っている」のだ。

聖書も神も知らないからこそ、受け入れられないのである。

私自身の過去を証言している様になるが、「知りたくない」のも事実である。

もしかして「怖い」のかも知れない。

「神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めた。」伝道者の書7:29b

宮にやってきた多くの金持ちが献金箱にカネを投げ入れていた。

ひとりのやもめも来たが、彼女は二つのレプタ銅貨だけを投げ入れた。

当時、一日の労賃1デナリの128分の1が1レプタの時代。

現在の日本における貨幣価値で換算すると150円程度のものだろう。

イエスはやもめの女性を見て呟かれた、「彼女が一番多く投げ入れた。」

「金持ちは有り余る中から投げ入れたが、彼女は一番多く投げ入れた。彼女は自分の持っているすべてを捧げた。」

イエスが見られたのは、金額の多少ではなく、神への信頼度であった。

仮に150円は彼女が生きる一日の貨幣であるとしたら、彼女は明日の運命を神に託したのである。

「赤貧洗うがごとし」という言葉がある。

金も財産も無く、水ですべてを洗い流した様に、一切の持ち物さえ無いことを言う。

明治時代に生きられた徳永規矩(のりかね)師の家庭は文字通り、赤貧洗うがごとしだった。

彼とて決して好きで貧乏になったわけではない。

6尺に届く頑強な身体の持ち主だったし、学術優等な人だった。

やがて社会にうって出ようとした矢先、当時では不治の病である肺結核に罹った。

毎日、コップに溜まるほど血を吐いた。

そんな人生をあざ笑うかの様なことが起こった。

徳永師は自分の家を担保にして人助けをした筈であったが、結果は悪意の者に騙されて家を失った。

病身の身を荷車に乗せられ、我が家を後にする下りは実に気の毒だった。

移り住んだあばら家での生活は、幼い子供達と、彼に尽くす妻、そして基督信仰に生きることだけが彼に残された掛け替えの無い財産だった。

或る日、そんな徳永家を見た奇特な人が二俵の米を恵んでくれた。

妻と幼い子供達は、あまりの有り難さに涙を流して喜んだものと推察した。

だが、宝物の様な米二表はアッという間に盗まれてしまったのである。

仮に私であるとしたら、どんな態度を取ったであろう。

仮にあなたであったら、どんな言葉を発したであろう。

徳永師は自分の前に座る子供達と妻の顔を交互に見やりながら言われた。

「こんな我が家に米二表も下さる方がいたことに感謝しよう。」

「そしてこの我々の家にも、誰かに盗まれる物があったことに感謝しよう。」

「この世に於いては、こういう事も起こり得るという実体験が出来たことを感謝しよう。」

「世に生きれば誰かに盗まれる物は多々あれど、私達のキリスト信仰は誰にも盗まれるものではないことを感謝しよう。」

私は大分前に、この箇所を読んだ際、思わず愕然としたことを覚えている。

あまりに自分と違い過ぎるキリスト信仰者の徳永師だったから。

徳永師は家族の誰にも責任を問うてなかった。

誰ひとりとして恨むことをしなかった。

何ひとつ、否定的な言葉もなかった。

そこにキリスト信仰の力と、キリストの力を見させられた。

そして思った、「本当のキリスト信仰とは、それ一つだけ持っているならば、他の何が無くとも人間らしい生き方が出来るものなのだ。」と。

あのやもめは自分の手に、残す物無く、神に捧げきった。

無限大なるはキリスト信仰。

それは神ご自身が∞の方なのだ。

1足すではない、×である。

救い主を私に足すのではない、自分が彼に埋没することが良い

キリスト者とはHis way に生きること。

キリストに生きる人生はHis way であってMy way ではない筈だ。

だが、今生きる己の日々の中でついつい見えてしまうのは、My way の信仰でしかない。

何とも恥ずかしい・・・

それでも、こんな私のためにイエスは「とりなして祈っていて下さる。」とは(ルカ22:32)

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