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■いつものように。。。/ダニエル書6:1~14

クリスチャンとして信仰に入ってしばらくの後、必ず導かれるのは聖書への取り組み。

黙想、祈り、瞑想、聖書を聴く。

これが私達の食事となる。

肉として生きるのではなく、霊性を養われることが第一であるからだ。

問われるのはC・信仰をどの位置におくべきか。

棚の上?

机の引き出し?

買い物籠とかブリーフ・ケースの中?

頭の端っこ?

すべてブーである。

当初は知恵を貰うためと思った。

幾年も過ぎてから聖書は絶えず考え、口ずさみ、呼吸するが如く必要不可欠だと分かった。

人は意識せず呼吸し、自然に食事して生きる。

同様に聖書、神のことばを忘れて霊性を保つことなど一日として無い。

これは事実である。

神の言葉は力であり、信頼であり、教書であり、過ちを悟らせ、悔い改めを促す。

自分の霊性が健康な時は、とても味わい深く、美味しいものだ。

一旦、神に反抗しているときは、やたらと鬱陶しい存在にもなる。

聖句は苦く、苦く吐き出したい程だ。

人間とは各も簡単に寝返ってしまう者であり、そしてキリストに愛された者なのである。

何年も何年も人は聖書と格闘する。

それは或る意味、自分の中のキリストと格闘しているのである。

そのことさえ、しばらくは気づかなかった。

乳児から幼児へ、児童から生徒へ、そして学生へ。

ずっと反抗期だったかも知れないし、今から後も。

人間の肉体的成長の方がはるかに短時間かも知れない。

人間なら40歳では間違いなく?立派に大人になるであろうが、聖書の前でそうは行かない。

自分は大人になっている積りでも、キリストの前では幼子、反抗期、まるでティーンエイジの如くである。

つまり、キリスト者は何歳なってもキャリアは関係ないと気づかされた。

日々、しっかりと神の下さる言葉を食し、味わい、咀嚼し、栄養となって行かなければ、幼児のままで年老いて行くことになる。

栄養素は元々十分に有るのだが、それを受け入れるか否かは人の生き方の選択による。

神の言葉の前で、成長することが何故「はかばかしく」行かないかというと、信仰生活には目に見えない方が常に一緒だからである。

おそらく、ひとり相撲で生きるとしたら、100歳まで生きても幼児程度でしかない。

教会という場所はクリスチャンにとって不可欠な場所である。

教会に行って礼拝だけ重ねれば済むものでもない。

同信の友と祈り合い、助け合い、思いを共有したりして知らぬ間に、互いを切磋琢磨している。

なぜ、そんなことで成長できるかというと、其処には「目に見えない方」がおられるからだ。

その方こそ、生ける神キリストである。

確かにキリストが集会の真ん中におられない教会だってあるだろう。

神さま、神さまと言っていると、神さまとは誰か分からなくなることだって起きるだろう。

人間が中心の集会(礼拝?)だって無いわけではないだろう。

クリスチャンという呼称は「キリストのもの」という意味である。

だから明確に「キリスト」の教会、キリストを礼拝、キリストをたたえる、キリストに賛美する、キリストにあって兄弟姉妹、ということを意識すべきであると思う。

こういう生き方が「いつものように、いつもを生きるキリスト者」を生み出すと思う。

今から2590年ほど前に、中東はカナン地方に密やかに息づいていたユダという国が滅びた。

小国であってもユダの人々は、まこと生ける神、ヤハウェを信じていた。

そのことは周辺の国々の知るところであった。

メソポタミヤに発生したバビロン帝国は、長らく栄えた前世代のアッシリヤ帝国を滅ぼし、栄枯盛衰を重ねていたが、既に次のペルシャ帝国が産声を上げようとしていた頃。

バビロンはユダから多くの有能な人々を自国に捉え移し、様々な仕事に従事させた。

多くの若者がバビロンで成人し、やがて壮年となって、頭脳明晰有能な人材となった。

加えて彼等の神であるヤハウェ信仰は「偽りのない者達」を育て上げ、バビロン政府の政治の場にも重用された。

その中にダニエルという人がいた。

聖書は言う、「彼の内には優れた霊が宿っていたからである。」(旧約・ダニエル書6:3)

(ところで兄弟姉妹、私達の内にもキリストという優れた霊が宿っていることをご存じか。)

彼はバビロンでは太守(自分の任地、領地を持つ人々)120人を監督する立場に置かれ「大臣」として管理統率する3名の内のひとりだった。

ユダヤ人でありながら成績優秀な者、ましてや帝国政府の高官であることは周囲の嫉妬、妬みは当然だった。

彼らはダニエルを失脚させるべく企んだが、ダニエルには僅かな落ち度も欠点も無かった。

そして目をつけたのがダニエルの神に対する生き方だった。

彼等は王に嘆願した。

「王よ、この国の何処においても、王以外の何ものにも決して祈願してはならないという禁令を発布してください。仮に掟を破った者あれば、獅子の穴に投げ込むと。」

王は当然のこととして、深く考えることも無く、文書に署名した。

ダニエルは禁令に王が署名したことを知った。

その日、彼は家に帰り、いつものように屋上の窓をエルサレムに向けて開け、いつもの様に日に三度、跪き感謝した。」

ダニエルは自分のしたことが、王の禁令を無視することであると知っていた。

だが、彼は「いつものように」彼の神の前に居た。

たとえ、それが死をもたらすことになろうとも、彼は主の前に居た。

生きるか死ぬかよりも、第一にすべきことを行ったのである。

罪には「行った罪」と「為さざる罪」がある。

為さざる罪とは「しなかったゆえの罪」である。

私達は行ったことに関しては敏感であろう。

だが、行わなかったことに関しては非常に疎い。

いかがであろう。

ヤコブ書4:17『為すべき正しいことを知っていながら、行わないならそれは罪です。』

日々、「いつもの様にキリストの前に生きる」ことだけが、急場であろうと生死の境目になろうと、いつものような行動が可能になる。

人々は王の前に出て告げた。

「ユダからの捕虜のひとりダニエルは、王よ、あなたの署名した禁令を無視して、日に三度、祈願を捧げております。」ダニエル書6:13

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