■獅子の口から私を守る方/ダニエル書6:10~28
「王よ、今から30日間、この国においてあなた以外にいかなる神にも人にも祈願する者は誰でも獅子の穴に投げ込まれるという禁令に署名されましたね?」
王は答えた、「その通りだ。取り消しの出来ない法律であることは確かだ。」
そこで彼らは言った。
「王よ、ユダヤから来た捕虜のダニエルは、あなたの署名した禁令を無視して、日に三度祈願をしております。」ダニエル書6章13節
それを聞いた王が瞬間、顔色を失ったと思える場面。
捕囚のひとりではあるが、ペルシャにおける政治的要職にあり、王の片腕として偉才を見せたダニエルは窮地に落とされた。
しかもダリヨス王、自らが署名捺印した「礼拝禁止令」によってである。
「このことを聞いたダリヨス王は非常に憂え、ダニエルを救おうと決心し、日暮れまで彼を助けようと努めた。」(ダニエル書6章14節)
結局、自分がした事ではあるが、彼の人生においては、あまりにも軽率で先を考えない失策だった。
思い直せば部下たちの卑怯な魂胆を見抜けなかった自分がいた。
禁止令の条文の軽さの反面、厳しい結果を伴うことは、浅はかな自分の対応だったのだ。
それにしても、ダニエルにとって自国でもないこの国を統率すべく、誰よりも忠実に仕えてきた可愛い部下を、何としても見殺しには出来ない。
殺させてなるものか、王は焦った。
だが、考えれば考える程に、禁令に抜け目のないことが明らかになった。
あらん限りの救いの方策を探ったが、浮かばなかった。
その者達はやって来た。
「王よ、あなたが制定した、どんな禁止令も決して変更されることは無いことをご承知置き下さい。」ダニエル書6章15節
遂に王は命令を出した。
ダニエルは連れ出され獅子の穴に投げ込まれた。
穴は王の署名がなされた石で封印された。
王はダニエルに言った、「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」
それがダリヨスからの、せめてもの言葉だった。
王は宮殿に帰り、食事をとらなかった。
そして一晩中、眠気も催さなかった。
彼がしたことは、ひたすら一縷の望みを胸の中で繰り返すことだけだった。
『ダニエルが信じる神よ、ダニエルの神よ、どうかダニエルを助け給え。
どうかダニエルを守り給え。』
おそらく、それが精いっぱいの祈り言葉であったかと思う。
クリスチャンとは何と恵まれ、祝福された民だろう。
イエスは祈りの意味と祈り方も教えて下さった。
弟子達のためにイエス御自身が祈って下さった。
そして今もイエスは私達のために執り成してくださっておられる。
「あなたの信仰が無くならないように祈った。」と、ペテロにいわれた。
私達は自力で信仰をしているわけではない。
私とて40年間、自分で信仰を守って来たわけでも無い。
私達が祈る前から、イエスが祈って下さっている。
第一、私達の言葉だけでは神に届かない。
覚えておられるだろうか。
イエスという御名を通してのみ、私達の祈りは神の前に届けられることを。
「イエスの名によって」と祈る意味を。
救いと赦しの仲介者、神と人の仲介者は「イエスおひとりのみ」であることを。
あなたはイエスの名によっていのれるだろうか。
イエスの名に含まれた力と意味を、ご自分のものとされただろうか。
朝が来て、陽が昇った。
ダリヨス王はその瞬間が待ちきれなかったかのように獅子の穴に向かった。
そして悲痛な声で、穴に向かって叫んだ。
「生ける神のしもべ、ダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」ダニエル書6章20節
私たちは心して、彼の心境をはかるべきである。
無力な自分を知った人間こそが、神の前に裸になれる。
尊厳もメンツも役に立たないことを知らされた者こそが、主なる神だけに期待と信頼をおけることを。
ダリヨス王、自分を神と同位置に置いた者であったが、人の限界と弱さ、愚かさをつくづく味わったとき、彼はまこと唯一のダニエルの神に目覚めた。
ダニエルが王に答えた。
「王さま、永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいで下さいました。王よ、私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」
この後、ダリヨスはペルシャと全土の諸国民、諸国語の者達に命令を書き送った。
「私は命令する。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震えおののけ。
この方こそ生ける神。
永遠に堅く立つ方。
その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。
この方は人を救って開放し、天においても、地においても、しるしと奇跡を行い、獅子の力からダニエルを救い出された。」ダニエル書6:25~27節
異邦人、そしてペルシャ帝国の王が、ダニエルの神「ヤハウェ」を称えている。
王自身が一晩中、断食をして心を神の前に注ぎだして願った思いがかなえられた。
切羽詰った次元ほど、私達を神の前に導き出す時は無い。
追い込まれた時ほど、私達のすべてを主の前に明け渡す時もない。