■シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ/ダニエル書3章1~8節
メソポタミヤにバビロ二ヤ帝国が立ち上がった時点で、ユダ王国にとって大いなる北の脅威となった。
バビロンにとって代わる前のアッシリヤ帝国が北王国イスラエルを滅ぼして約135年後だった。
数えきれないユダヤ人が捕虜として連れて行かれた。
若くて頭脳優秀な人々、特殊な才能、技能を持つ人々であった。
彼等は生きることだけを希望の灯と信じ、時として故郷のシオン(エルサレム)を思い出しては泣いた、と聖書にある。
エレミヤという預言者は70年が満ちる頃、主が彼等を再び故郷へ帰還させると預言した。
慣れないことだらけ、言葉、風習、食事、最も肌が合わなかったことは、礼拝する対象が全く異なるものだった。
バビロン於いては王自身が神であり絶対主であった。
目には見えない「御霊」なる神、ヤハウェだけが先祖代々からヘブル人の神であった。
十戒の一番と二番。
「あなたには、わたしの他に他の神々があってはならない。」
「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。」
律法の「イの一番」に登場する言葉は、彼等にとって苦しく重い十字架であったに違いない。
[詩篇137:1~5]
「バビロンの川の畔、そこで私達は座り、シオンを思い出しては泣いた。
その柳の木々に私達は立琴を掛けた。
それは私達を捕え移した者たちが、そこで私達に歌を求め、
私達を苦しめる者たちが、饗を求めて、
シオンの歌を一つ歌え、と言ったからだ。
私達がどうして、「異国の地」にあって「主の歌」を歌えようか。
エルサレムよ。
もし私がお前を忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。」
辛く悲しい詩である。
仮に私が捕虜でないにせよ、胸に迫るものがある。
詩人とて、胸を打って涙する思いであったろう。
この場面、北朝鮮に拉致されて、距離で測れば最も近い隣国であり、小舟であっても渡るであろう日本海、であるのに完全に切り離された父母、兄弟姉妹達。
両親の顔を夢に見ない夜はない程、泣いて過ごした日本人拉致被害者が被って思い浮かぶ。
他国の人生と運命を、大きく曲げてしまう人間とは実に罪深い存在である。
生まれた国、育った故郷、不条理にもすべてから切り離された身、頼る人もなく悩む心を堪えて生きる辛さは想像を絶するものがある。
ユダの国から連れて来られた青年たち、シャデラク メシャク、アベデ・ネゴ。
彼等が故郷で生きている頃は、「エル」「ヤハ」という神名を見合わせてつけられた名で呼ばれていた。
ミシャエル、ハナヌヤ、アザルヤで呼ばれた日々はだんだん遠くなって行った。
今はこのバビロンという此の地で、此の国で、今日を生き続けるのみ。
時として挫けそうになる時は、彼らの神と故郷を想いながら必死に生きた。
バビロンの王、ネブカデネザルは黄金の像を造らせた。
高さ2メートル60センチの像は金色に輝き、何処にいても際立って目に映る威容な姿だった。
バビロン帝国の王という権力と名誉、栄光と尊厳を象徴する黄金の像は行き交う人々の目を捉えた。
地位、才能と政治力、その王位は余すところなく聳え立って見えたであろう。
黄金像の前で伝令官は大声で叫んだ。
「諸国、諸民、諸国語の者たちよ。王はあなた方にこう命じられた。7つからなる諸々の楽器の音を聞く時、何処にあろうと何をしていようと、その場にひれ伏し王が立てた此の像を拝め。仮にそうでなければ、何びとであろうと、ただちに燃える炉の中に投げ込まれる。」
その後、三人の者が王の前に訴えられた。
バビロン州の事務をつかさどるシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。
訴え出た者が叫んだ。
「王よ、この者達はあなたを無視して、あなたの神々を拝まず、あなたが立てた像を拝みもしません。」
ネブカデネザルは烈火のごとく怒った。
「お前達に言う。よいか、これまでの功績に免じて、もう一度だけ機会を与える。諸々の楽器の音を聞く時、ひれ伏して私が造った像を拝むなら由。だが、もし拝まないなら、お前たちを直ちに燃える炉の中に投げこもう。
どの神が、私の手から、あなたがたを救い出せよう!」
三人は言った。
「私達はこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。
私達が仕える神は、炉の中であろうと私達を救い出せます。
王よ。神は私達をあなたの手から救い出します。
しかし、仮にそうでなくとも、王よ、ご承知おきください。
私達はあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」
凛とした声で言い放った三人は、ヤハウェの神を腹から信じた。
もしヤハウェを否定する位なら、彼らは死を選んだ。
死を覚悟した人間は強い。
命を賭して神を信じたのであるなら、この世に恐れるものなど無い。
21世紀の今、私達日本人キリスト者は何を思うのだろう。
ネブカデネザル不在の今であろうと、死者であれ、親しい人の仏前であれ、仕事で世話になった人の御焼香であれ、地域の祭りごとであれ、私達が仕える神以外に頭を垂れ、手を合わせ、拝むことは偶像礼拝である。
仮に、心は其処にあらず、であっても、だ。
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの生き様は、遠い旧約の空の幻なのだろうか。
「あなたこそ、生ける神の御子、キリストである。」と宣言したペテロの信仰告白は他人事なのだろうか。
「始めに神が・・・」で始まった創世記から、「然り、わたしは直ぐに来る。」と言われた黙示録、主イエスの言葉は一度として死んではいない。
否、彼は死んだが三日目によみがえられた。
もし、よみがえりの主が私達の中に、今日も不在であるとしたら、金の像でも木の像でも石の像でも拝むがよいであろう。
やがて「永遠に燃え続ける炉」は、誰のために有るかを知るだろう。