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■イエスは神/ヨハネ2章:13~25

克己心(こっきしん)ということば、自分の弱さを克服しようという心意気だと言う意味。

ひとそれぞれは大方が取り組んで来た、己の心を鍛えること。

ああ、それなのに、それなのに・・・

見事な惨敗ぶりだった。

箴言18:14が言っている。

『ひとの心は病苦をもしのぶ。しかし、ひしがれた心に誰が耐えるだろうか。』

人の心は鍛えることが出来るのか?

あのパウロだって結局負けたではないか。

「ああ、私はなんと惨めな人間なのでしょう。誰がこの死の身体から、私を救い出してくれるのでしょう。」

だが、パウロは他のひととは、かなり違うぞ!

そう、彼はイエスを知っていた。

彼は言う、「私達の主イエス・キリストのゆえにただ神に感謝します。」

「イエス・キリストは神の御子~、」なんて言っても決して悪くはないが・・

但し、私は大声で言いたい、「御子、御子と言ったって、神社で白い着物に赤い袴の巫女ではない!」

もう一つ、「御子イエス、御子イエスと教えられてその気になっている方々、イエスは父の半分にも満たない存在で、いつも跡取り息子で、いつもお父さんの後ろに控えている自信無げな方なのか。」と。

御子イエスは、クリスチャンの祈りの終わり、お印の如く加えられた「のし」の様なものなのか。

聖書をしっかり読んでください。

父とイエスは同神格、一体の神である。

イエスは父のわざを行い、イエスは父の言葉を弟子達に伝えた。

父はイエスによって栄光を現し、イエスを知る者は父を知る。

イエスを通してでなければ、誰ひとり父の元へ行けない。

イエスは父であり、御子であり、天に上られた御霊である。

「三位一体」とは非常に分かり易い表現だが、ときとして間違いを招く。

父、子、聖霊って「決して偉い順番ではない!」それはあくまで、御霊なる御三方の神であり、同一無二、唯一の神であり御霊の生ける主、であるからだ。

私は以前、一年半掛けてヨハネの福音書から聖書勉強をしたことがある。

特に注解書を使ったわけでもなく、辞書をなぞったものでもない。

聖書と睨めっこし一説ずつ取扱い「ここから何を学べるか?何が問題なのか?そしてイエスは誰?」とやってみた。

暫くやっている内に頭が痛くなった。

それはイエスという「偉大なる方」は、人間の頭で測りきれない、収まりきれない神だと知ったからだ。

その終わり頃、福音書は声なき声で私に迫った。

『イエスは神だ、彼こそ神だ。』

そしてそれだけが私の胸に焼き付いた。

終わってみて何かが変わった、そうだ、私のキリスト教が変わったのである。

膨大な時間を掛けて、教会が造りあげたキリスト教ではなく、自分のキリスト観がはっきりした。

クリスチャン信仰は進化する。

それは当然である。

信徒の内側が変えられれば、その人のキリスト観は自ずと変わる。

「変わらないことは、イエスが十字架をつけられ殺され葬られ、三日目によみがえられ神の栄光を現され、彼を信じる(受け入れる)者は罪赦されて救われるということ。」

以上のこと以外は変わる筈、とさえ思う。

自身の中で変わらないキリスト観で無い方が、返っておかしいとさえ思う。

過ぎ越しの祭りの最中、イエスはエルサレムにおられた。

ユダヤ人が彼を取り巻いていた。

彼等の望みは「イエスの不思議なしるし」を目の当たりにすること。

聖書は言わないが、イエスは不思議なしるしをかなり行ったらしい。

すると、大勢のユダヤ人がイエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。

だが、聖書は言う、「しかし、イエスはご自身を彼らにお任せにならなかった。何故ならイエスはすべての人を知っておられたからであり、人の内にあるものを知っておられたからである。」

しるしを見て信じたとするなら、神がその人たちを信用しないと言っている。

目にしたものは時と共に変わり、薄れるからだろうか。

復活のイエスが弟子達の前に現れたとき、トマスはその場に居なかった。

そのトマスが言った、「私は此の目で釘の跡を見、この指を主の脇に差し入れて見なければ信じません。」

八日後、主は弟子達の前に現れ、そのときイエスはトマスに答えていわれた。

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」ヨハネ20:29

我々は大体において「一喜一憂」し易い者である。

それは人間だから当然だが、出来ることならもう少し大局的な視野を持ちたいと思う。

小さなことで落ち込み、小さなことで大喜びする。

神は広い視野と視界をもっておられる。

私ごときの小さな視野でも視界でもない。

だが、私の内に住んで下さった方は、と~っても大きな方なのである。

そういう方であるのだから、少しは大きな視野と心を持ちたい。

例えば、大きな音を立てて落ちる滝があったとする。

水煙を上げる滝壺のそばに太い木があって、伸びた枝の先は落ちて来る水に触れる程の距離だった。

更にその枝の別れた付近に小鳥の巣があった。

滝壺の激しい音と水煙は、時として小枝を揺るがす。

だが、そこに忍び寄る蛇の姿はない。

他の猛禽類も、其処にはやっては来ない。

親鳥はその様な環境の中であるが、今日も忙しく雛のために餌を運ぶ。

誰かがこの景色に題をつけた。

「キリスト者の平安」。

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