■キリスト者の宝/ルカ12:32~40

「キリスト信仰とは、他人に教えることは容易く、自分で生きるには何とも難しい」ものだと悟らされた。

他人に伝えるには、言葉もスラスラ出てくるし、生き生きと表現さえ出来る。

だが、いざ自分で実践するときになると思った以上に心も体も動かない。

やはり人間とは自己中心である。

自分のプライドを守りたいからか、謙虚になれないからか、自由になりたくないからか、変わりたくないからか。

何れもが当たっているかも知れない。

だが、そのハードルを乗り越えない限り、その先は無い。

イエスの言葉に考えさせられた。

ルカ12章33節「あなたの持ち物を売って、施しをしなさい。」

字句通りに受取れば、自分の持ち物を金に換え、貧しい人に与えなさい、ということ。

そこで拡大解釈ではあるが、すそ野を広げてみた。

それはお金だけでなく、自分の時間、労力、賜物、信仰、アガペーを供給することである。

果たして「自分のもの」と言える対象がどれ程あるのだろうか。

思い起こせば、それらはすべて主からのものだった。

なにひとつ、自分で「ひねり出した」ものなどない。

と、考えれば「私はあくまで中間点に立って左から右へ渡すだけの者」か・・と思う。

そう思えば、自慢も高慢もつけいる隙間はないだろう。

『自分の大切なものを手放して与えなさい、それは回り回って、天に宝を積むことになるから。』

イエスはそう言われただろう。

今日まで守られた人生を振り返ってみた。

すると、「あのことがあって、今がある。」という瞬間に突き当たる。

紙の上に自分が歩いて来た人生の道筋を書き、そこに出来事と出会いを書き込んだ。

すると、それまでとあきらかに違う流れの岐路と起点が浮かび上がった。

生きるとは!そのとき、あのとき、こんなとき、目の前の、その先の、さまざまなことなどを考えながら生きている。

生きている限り切れてはいないが、どこかで大きくハンドルをきっている。

生きるとは選択の連続である。

そして選択する機会は幾度も限りなくあった。

そういう歩みを辿って来て後に先端らしき場所が今日であり今である。

そしてイエスに出会うに至った決定的な岐路をあなたは発見する筈だ。

その場所こそ、キリストがあなたの人生に介入すべく待っておられた時だった。

いまでこそ時と言えるが、当時は数カ月、数週間掛かったのかも知れない。

だが、その結果、それは大きなターニング・ポイントとなった。

普通に生きて来たにせよ、イエスと出会うことは「単なる宗教に出会った」のではない。

イエスはそれほどに、私たちの人生に大きな波紋を与えられた方である。

そして主は今も大きな影響を与え続けておられる。

イエスが十字架を担いでゴルゴタへの道を進んでいたあの日。

彼は体力的に限界をはるかに通り越しておられた。

そこへ、「たまたま通りかかった」のが、アレキサンデルとルポスという二人の男の子を連れた「クレネ人のシモン」だった。

護衛の役人はシモンに目をつけると無理やりにイエスの十字架を彼に担がせた。

シモンは丘の上に辿り着くまで、十字架を担いだ。

その間、シモンはイエスの御顔を何度も覗き込んだであろう。

酷く痛めつけられた顏ではあるが、十字架刑に処せられる悪党とは、とても思えなかったと思う。

十字架を置き、父と息子達は後ろを振り返りつつ、イエスが掲げられるのを目にしたのだろうか。

それから何年も過ぎた頃。

パウロがローマ人クリスチャン達に書き送った手紙の終わりで、短い言葉を「或る人」に向けて書き残している。

「主にあって選ばれたひと、ルポスによろしく。彼と彼の母によろしく。彼女は私にとっては母でもあるからです。」ロマ書16章13節。

あの日、シモンはエルサレムで嫌々ながらもイエスの代わりに十字架を運んだ。

そのことは人生で忘れられない出来事となった。

彼は幾度となくイエスのことを妻と息子たちに話したであろう。

シモンが背負ったあの十字架で、罪びとと思えないあの方が殺されたこと。

その後しばらくしてイエスがよみがえられたという知らせを聞いたとき、シモンと妻は何を思ったか。

何よりもシモンと妻は本当に驚いた筈だ。

そして彼女と息子たちは、イエスに対する好奇心と興味を持たずにはいられなかった。

そしてキリスト者の群れの中で、彼らは変えられて行った。

ローマに移り住んで暮らしていた際、パウロとの接点が生まれた。

もしイエスがよみがえらなければ、彼らが見た白日夢は単に「エルサレムで見た悪い夢」だけだった。

シモンのその後は分からない。

だが、シモンが背負った十字架は彼の家族にとって決して消せない大きな出来事だった。

あの日のあのこと。

人生で大きな岐路となったあの日は、キリストに出会ったからこそ、はっきりと刻まれたのだ。

あれが私の本当の人生の起点でもあり、あの先の道で私はあの方、イエスに出会った。

あなたにとって、そういう瞬間があったから、キリスト者としての今がある。

若しくはあのことを見過ごして来たから今が足りない・・のか。

人生とは曲がりくねって、ずっと続いて行く。

だが、そのどこかで、イエスがあなたの道に介入され、彼は一緒に歩き出されたのだ。

まるでエマオの村へ急いでいたイエスの弟子たちのように。

あなたが忘れてもイエスは忘れない。

それは主ご自身が待っていて、介入されたからだ。

私たちは自分に起こったことを、誰かに伝える価値と使命がある。

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