■栄光はナザレのイエス・キリストに/使徒3:9~19
榎本保朗牧師が語っておられた。
信仰には1マイル(1.6キロm)信仰と2マイル信仰があるらしい。
信仰生活で何処までも主のことばに従おうとする人があり、「自分の都合のつく限り」従おうとする人がある。
聖書を読みたいときに読み、祈りたいときに祈り、礼拝に出たいときに出る、これが1マイルの信仰というらしい。
しかし、この1マイル域内に留まっていては、キリストのいのちにあずかることは出来ない。
そこから一歩踏み出して、2マイルの信仰、すなわち自分の気分や都合に捉われず、みことばに従って踏み出して行くことこそ、尊いのである。
1マイル先のもう1マイルこそ自らが主に捧げた、より価値ある1マイルではないだろうか。
イエスさまも言われた。
『1ミリオン(1.5キロ)行けと強いる者がいたら、2ミリオン行きなさい。』
人間は目に見えるものに弱い。
見えない主を信じるよりも、見える人を信じ易い。
だからカリスマ性の有る人を見れば神さま以上、若しくは同等に魅力ある存在に見えてしまう。
「ナンデダロウ~、」と思って考えたら、自分の目で見て、勝手に自己判断してしまっているからだ。
別に目が悪いわけではない。
目の奥にある脳が、人の中で利己的に従属してしまっているのだろうか。
「ナンデダロウ~」を口ずさみながら、冷静に辿ってゆくと、結局行き着くのは人間の中のおぞましい考えに自分が隷属しているからだと気がつく。
「なんてダメな私だろう」と気がついたなら、それほどにダメと思わないで、すぐ隣におられるイエスにしがみつくが良い。
彼はそのためにあなたを救われたのだから。
イエスが言っておられる、「わたしは見える者という者が見えなくなり、見えないと思う者が見えるようになるために来た。」
実に、的を射た主の御ことばである。
ペテロとヨハネが神殿において、生まれつき足の立たない男を立たせたことは、その場にいた人々にとってこの上ない驚きであり、驚愕だった。
人々はペテロとヨハネを取り巻いて、二人を覗き込むように見つめた。
ペテロが言った。
「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか、信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見詰めるのですか。」
「私たちは、信じています。あなた方によって殺されよみがえられたイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、見てのとおりに彼を立たせたのです。」
人々がペテロの信仰深さと彼の力をつなげて考えることは容易かったのである。
しかし、イエスの御名を信じる信仰こそが、生まれつき立てなかった男を立たせたのである。
それは私達とて日々、同様の過ちを犯してしまっているものである。
メッセンジャー、教会のリーダー、ゴスペルを歌う人、指揮者、ついついそういう人を知らず知らずの内に神格化してしまう程に、カリスマ性の虜になり易いのが人間であるからだ。
時として、理性を超えたところで人間の目と感性は逆の方向に回っているからだと思う。
ペテロとアンデレ、ヨハネとヤコブはガリラヤ湖の漁師。
イエスの他の弟子たちにせよ、とりわけ優れた人材ではなかった。
高学歴、そしてハイクラスな階級に位置する人々でもなく、特に理知的な人たちでもなかった。
取税人もいたし、癖のある人、カラーが濃い気質の人もいた。
「ナンデダロウ」と感じてしまう面々だった。
だが、すべてはイエスが直接的に声を掛けて召した人々だった。
これほどユニークな人々が、イエスの十字架の死と復活の後に与えられた聖霊に揺り動かされた。
確かにイスカリオテのユダは脱落した。
イエスを役人に売り渡し、その後自らの罪を裁き、自分を裁いて首を吊った。
私のユダに対する個人的見かたがある。
もしかして、イエスに一番期待していたのは他の誰よりもユダだったのかも、ということ。
だが、ユダの期待は余りにも独善的で利己的なものだった。
それを満足させるために彼はイエスについて行ったが、結果としてイエスに裏切られたと勝手に思い込んだ。
或る意味、ユダは哀れで寂しい男であった。
彼は自分の栄光をイエスに託したのだろうか。
私達は確かにユダではない。
だが、どこかに自分の栄光も欲しいと指を咥える自分が居なくはない。
「主に栄光を、私には恥を」と、ジャン・カルバンという人が言ったが、「私にも少し栄光を」という思いが無くでもないのは事実である。
しかし、栄光はイエスのみである。
イエスの御名にだけ栄光を、である。
間違いなく、これがいい。