■キリスト者の根幹/使徒4:1~12
使徒4章12節
「この方以外には、誰によっても救いはありません。世界中でこの御名の他には、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」
何気なく、当然のごとく聖書をめくり、拾い出しては使っていた、この聖句がキリスト教のすべてを言い表していることに改めて気がついた。
キリスト教がキリスト教である所以は、文字通りこの聖句がすべてを表現しているのである。
余りにシンプルで、分かり易く、簡潔だ。
イエス・キリストの名前以外に救いはない。
つまり、何をどう信じているかが問題ではない、この世に数ある宗教があってもイエス・キリストの名前以外に救われるものは無い、ということである。
新生賛美歌の500番、「イエスがいなければ何も出来ない」とある。
聖書の何をストーリーを、歴史を、背景を、主張を、神学を知っていても、イエスを知らなければ生きる術(すべ)とはならない!
聖書が伝えたいすべてはイエスなのである。
私はイエスの大ファンであるが、イエスがいないキリスト教をやっていた昔もあった。
その時はモーセが40年暮らしたミデヤンの地にいるような気分だった。
シナイ半島の右端を削ぎ落したようなアカバ湾があり、その右にある広大な荒野がミデヤンの地だった。
モーセはそこで家庭を持ち、舅の羊を飼っていた。
朝から夕まで羊を移動させていた。
彼はエジプトからの逃亡の身であった。
ミデヤンの地に、神ヤハウェはいなかった、のか。
まるで彼の40年の羊飼い暮らしは神不在のようだった。
と、いうよりもヤハウェもヘブルびと達も忘れたかのような時空だった。
だが、ヤハウェはミデヤンに臨在された。
主は40年が満ちるのを待っておられたのだ。
イエスがいなければ何も出来ないし、何も始まらない。
クリスチャンとはキリストのもの、そう、私たちは「主に呼ばれたあの日から」彼のものになっていたのだ。
だが、その部分を教えてくれる牧師も、教会員もいなかった。
だから単純に教会文化しか知らなかった。
真面目に見えるであろうかの様な生き方をすると、実に疲れるものだ。
そりゃそうだ、へぼ役者をやっているのだから。
その結果、ミデヤンに逃れた次第だった。
イエスによって救われ、イエスによって育てられる、これがいい。
昨日まで聖書も知らず、イエスの名前さえも知らなかった者が今日、救われるということ自体、珍事であって珍事ではない。
自分のことながら思わず笑ってしまうような話だが、これは事実である。
今の今まで、キリスト教を馬鹿にしていた人が、その一時間後にクリスチャンになることだって大いにある。
人が為すことだけなら、インチキ臭いが・・・・。
だが、聖書の神の前では十分起こり得ることなのである。
否、当然のことなのである、主にとっては。
何故なら生ける神が働いておられるからだ。
何だって起こり得ることなのを私たちは知っている。
或る意味、信じないでいるよりも、信じた方が納得のゆく人生である。
イエスと生きれば、無駄なエネルギーなど使う必要もない。
実にスムーズである。
「この方以外には、誰によっても救いはありません。世界中でこの御名の他には、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」
使徒4:12
この聖書の言葉こそ、教会の根幹であり、信徒の根幹である筈だ。
だから今日も「キリスト教」という看板を掲げていられるのだ。
だから会堂を見上げるよりも、看板を見よう。
しっかり看板をみてから中身を見れば、何かにつけて納得されるだろう。
看板と異なる方向性、教えなどもっての他だと思う。
数年前、私はふと気がついた。
「俺は本当にキリスト教」をやっているのだろうか。
看板に嘘偽りないキリスト教をしているのだろうか。
それはターニング・ポイントだった。
あそこからイエス探しが始まったのだから。
大きくハンドルを切った思いがした。
戻りたくもないし、戻れないのだ。
モーセが再度エジプトに向かう日、彼の手には「神の杖」があったと聖書は言う。
あの杖こそ、「神の臨在そのもの」だった。
今、私たちに何があるだろう。
杖よりも確たるもの、それはイエスご自身である。
他に何も要らない!
イエスがおられるからだ。
「イエスがいなければ何もできない。
(もしいなければ)荒波にゆれる帆のない舟のよう」と讃美歌は歌う。
あの根幹によって生まれ、あの根幹によって成長せられ、そして生かされている。
『イエス以外の名によって救われることはない!』
私たちのベースはイエス・キリストである。
物事の最も大切な存在こそ、イエスである。