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■ 「あの日、私も十字架に上にいた」 / ルカの福音書23:24~47

そうです、約2000年前のその日、彼は十字架に掛けられました。旧約聖書が言うとおり、『彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみと病の人のよう。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった・・・』イザヤ書53章

初めてイエスに出会った弟子達は、イエスの顔、目、言葉、すべてにただ者ではないのを感じて、イエスの招きに従いました。イエスの愛、メッセージ、癒しは当時の人々、すべての渇きを満たしました。しかし、彼は十字架へも道を歩き続けます。それは、飲めない盃でしたが・・・彼は飲んだのです。ローマ総督のピラトはユダヤ人の希望を取り入れ、バラバという極悪人を解放させ、イエスに十字架刑を宣告しました。

鞭打たれ、こぶしでなぐられ、唾をかけられ、冠と紫の衣をかけられ(王の象徴)ました。しかし、冠は大きなトゲのあるいばらで編んであり、それはイエスの額に食い込み皮膚は破れました。十字架に彼の手と足は釘つけられ、ユダヤ人の王という板が彼の頭の上に置かれ、カルバリの丘に立てられます。群集はイエスを嘲笑し、あざけります。「お前が神の子なら、そこから下りてみろ」。12時から3時まで天と地は真っ暗になった、と聖書は伝えます。すべての人類の罪(罪とは、的外れな生き方=生まれついて神から離れて生きること)は釘、鞭、いばら、となって、イエスの体を突き刺しました。そしてイエスはその日、ガックリと首をうなだれ、息を引き取ったのです。警備兵の隊長は「彼は本当に正しい人であった」と呟きました。

それから幾年か後、パウロという人は「私はキリストと共に、十字架につけられた」と語っております。不思議ですね、何故でしょう?それは自身の罪というものを、パウロが認めたからです。認めたと言うより、悟ったというべきでしょうか。いいえ、イエスを救い主、キリストと認め、受け入れた時にパウロは己が罪を知った!のです。イエスは十字架に上で叫んでおります。「父よ!彼らの罪を赦し給え!彼らは何をしているのか自分で分らないのです」と。罪とは悟るものでもなく、教えられるものでもない。自分にあるものとして知るものです。イエスを知れば、己が罪を知る。罪を知れば、十字架を知る、のです。

あの日、私は死にました(私の罪=私という存在)。十字架の意味を知った今、私は自分が生きているのではなく、生かされているのを知り、キリストを信じる信仰によっていると、知りました(ガラテヤ2:20)。 そう、あなたもあの日、死んだのです。

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