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■ キリストに生き、キリストに生かされる / マルコの福音書2:18~22

先週の新聞に「振り込め詐欺」のことが掲載されておりました。とてつもない被害額に上っておりますが、日本でこの種の事件が膨張してしまうことに、日本人という国民性も起因している、とも思われました。被害に会われた方達は、家族のためならば「出来る限りのことをしてあげたい」と言う心情であったと思います。心の盲点を突いた事件、家族愛、人間の情につけ込んだこの手の詐欺は、赦すことが出来ない、と思いました。

信仰に生きる多くの方々は、今日という日ををどのようにとらえておられるのでしょう。信仰の根底に光を当ててみたい、と思いました。 「キリストに生き」とは、自分からの積極性が如実に感じられる表現です。素晴らしい姿勢だと思います。特に非キリスト教社会(結婚式以外)のわが国では、周囲も社会も神道カラーです。(私自身は日本人社会が仏教的とは思っていません)このような人間社会で、クリスチャンとして信仰の証しに生きることは、とても大変と思います。反面、大変ではあっても積極的に生きて証しておられるクリスチャンもおられます。  しかし、オズワルド・チェンバーズ先生が真理を語っておられました。「私達は神にあって生きているのだから、神なくて生きている人達よりも、はるかに楽な筈である。」そうですね、確かに間違ってはいません。

「キリストに生かされる」とは、自分の努力とか積極性を既に超えた領域のように思えます。一見、消極的に感じられますが、そこには自分という存在と中身を知った告白が存在します。自分の弱さや限界だけでなく、気移り、感情の変化、気持ちの動揺と言った日常の自分の断面を悟った故に、神を認めざるを得ないのです。確かに神の恵みと憐れみなくして、人は何も出来ません。「自分が頑張った故に今がある」と錯覚?し、サクセス話に酔っている私たちですが、母の胎で頑張った人など、一人としたいませんし、また、頑張って母の胎に入った人もいません。生まれ出でて、頑張って母乳を飲んで、オムツも替えた人もいません。人とは一体、いかほどのものでしょう?

イエスは言われました。「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなさい。そうでなければ、(醗酵する若いぶどう酒の力により)古い皮袋は裂けてしまいます。」 私の中に入られた聖霊は私の中を、新しくされようと、働きはじめます。しかし、私自身が古い体質に固執し、神さまの改革や変革を無意識、意識の内に邪魔します。これが、古い皮袋です。古いままで頑張っていると、やがて限界が来て、皮袋は破れ折角の「ボージョレー・ヌーボー」は地にこぼれてしまいます。もう一度、「生かされている」ことを静かに考えてみませんか?神様は本当に、あなたを愛して慈しんでいるのです。どうか「古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなった」ご自分を楽しんでください。

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