■ 神の誠実、これをなしたまえり / マルコの福音書8:22~26 (2005-07-31)

イエスと弟子達ががベッサイダという村に来たとき、村人が目の見えない男を連れてきて頼んだ。「主よ、どうかこの男にさわってやってください!」イエスは男を人々から引き離し、彼にふれると、男の目は開き、生まれて初めて見る人間の姿は、「まるで歩く棒のようです」と言った。イエスは村に入らないようにと男に念を押された。神の秘儀としての癒しを、好奇心の的のように見られることをイエスは強く嫌われた。栄光はすべて神に、これがイエスその方であった。イエスの謙遜と誠実が漂ってくる聖書の記事である。

実に神は誠実な方である。もし、そう思えなかったら100人のクリスチャンに聞いてもらったもいいだろう。 「神があなたを裏切ったことがありますか?」 おそらく100人は答える。「いいや、一度もありません。」と。 神からの罰を恐れての答ではない。真実、そう答えると思う。勿論、神が私達の祈りや願いを100%適えてくれはしない。と、言うより、かなえてもらった祈りの数のほうが少ないくらいであろう。かなえられなかった祈りのほうが多いのである。しかし、祈らずとも、与えられた恵みや祝福は数え切れない。なぜか?聖書は言う。「あなたがたの天の父は、あなた方に必要なものはすべて知っておられる」からだ。本当に必要なことのために祈っていない私達かも知れないし、まだ待つ必要がある場合には、神は直ぐにかなえてくださらない。

「数えよ、一つずつ、数えて見よ主の恵み」と言う讃美歌がある。思いどおりにならない人生、願ったとおりに行かない人生。本当に神よ、あなたはおられるのですか?と叫びたい時だってある。そんな時、神を思いながらつい呟いた。「主よ、どうしてですか?」と。その時、私たちの心は、目に見えない神に向く。そして自問自答する。「私はどれほど、神に対し誠実に生きただろう?私の真実は神の前にどれほどのものなのだろう?」冷静になって振り返ってみれば、自分の満足を満たすための人生だけだった。満たされない空しさを神にせいにしてきた。報われない努力のいらだちを、神の責任に転化していた自分が浮き上がってくる。

クリスチャンは総体的に見れば、大体善人である。誠実である。良い人たちである、と言える。だが、神の前においても、誠実な人はどれほどいるだろうか?神は人間の表面を見られない。神は人間の内を見られる。だから、私達は「神の前にも誠実である。」と、言い切れない。実に私達は神にあって、不誠実な生き物でしかない。

それでも、多くの人が神に用いられている。神の栄光を現している。神はどんな器でも用いられる。そして、欠けだらけ、ヒビの入った小さな私達という器に、神は栄光と力を注がれ尊いわざに用いてくださっている。 先日、札幌にある大きな教会の牧師が神にみもとに召された。赤ちゃんのとき、小児麻痺に冒され、左手が少し動くだけで、肢体の自由のすべてを失った。幼稚園も小学校も、中学も行けなかった。想像を絶する困難の青春時代に両親は亡くなられた。神も仏もあるものか、とはまさにこのことである。 だが、神はおられた!神は彼に走り寄られ、彼の魂をとらえられたのである。

隠されていた彼の宿命の糸の縺れを、神がどのようにほぐされたのか、私は知らない。だが、その後の彼の人生を見れば、神がどう関わられたかが分かる。聖書学院に学んだ彼を神の器として、神が用いられた。人々は彼を見る度、彼のメッセージを聞く度、神がおられることを否めなかった。やがて人生の伴侶として神が与えられた素晴らしい妻は、世界のどこへ行くにも彼をおんぶした。彼はメッセージで語る。「もし、皆さんが天国で妻を背負っている男を見たら、それは私です。私は天国へ行ったら、妻をおんぶできるのです。」アーメン、神の誠実、これをなしたまえり、である。そして、彼は誠実をもって神に応えた。

今、私達のあるがままの状態で、この世の誰が重要な仕事のために呼んでくれるだろう。私達に誠実の限りを尽くしてくれるのは、イエス・キリストと父なる神以外におられない。私達の誠実ではなく、キリストの誠実が、私やあなたを罪の束縛から解放し、まったく新しい人間として変えてくださるのである。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなるクリスチャンの人生」である。

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