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■ 夫婦は神のもの / マルコの福音書10:1~12

離婚とは、当初誰もが予想していなかった事態である。だが、今の日本は欧米並みの離婚率である。離婚に至った人達(特に芸能人)は必ず言う。「性格の不一致でした・・」。だが、人間千差万別である。皆、異なる性格の持ち主である。特に男性と女性は更に異なる。 不一致であって当然だと思う。仮にそういう理由だとすると「あなた方は二人とも同じ性格なのだ、という誤解をしていたのではないですか?」と言いたい。だからコメントするとしたら、「私達は二人とも頑固で、お互い歩み寄れませんでした」とか「お互い譲歩することが嫌いで、結局自分の我に勝てませんでした。」と言うべきだろう。 勿論、どちらか一方の誠意の欠如で別れる羽目になった方も多いと思う。世のご夫婦は決して努力と忍耐なしで継続してはいない。長い時間、耐えて忍耐して築いてきた家庭だと思う。夫婦双方の努力なしで家庭は決して築けない。別れるのは容易いが、留まって継続するのは、忍耐が要る。

イエスを試そうと離婚について話を持ちかけた人々がいた。イエスは言われた。「神が結び合わせたものを人間が引き離してはなりません。」ここに言う人間とは当事者同士でもあり、第三者でもある。二人は神の導きによって結婚した。キリスト教式であるなら、司式者を通して神に誓った。だが、結婚する二人または一方がクリスチャンでないとすると、その人は誰に誓ったかの意識はない。キリスト教の神?それだけで、どんな神か分かるのだろうか。自分の罪さえ分からずに、どうして十字架の主が分かるのだろう。キリスト教式で司式しているすべての人達に言いたい。『あなたがたは何も知らない二人を前にして、何を誰に誓わせているのですか?』と。

そして二人がクリスチャンだから全てがうまく行く、とは限らない。人間はやはり弱い。欠点も多い。だが、少なくとも創造主に向かい会える夫婦なら、試みの中でも必ず神の介入がある。その介入を求めるか否か、で決まる。イエスが教会を愛し、教会がキリストに従うように、夫婦は互いに愛し会い慈しみ合う。目の前に置かれた伴侶は、神が備え給うた存在なのだ。そして神は自分を愛していると同様に、目の前の伴侶を愛しておられる。それは、主のご命令である。人間ではない。

身近にいる対象ほど、難しいものはない。互いにどうも素直になりにくい。そんな思いを持っている人も少なくないと思う。しかし、夫婦は互いに理解できなくても、受け容れあう度量も必要である。今は理想から外れていても、やがて時が来れば解決の日が来る。神に祈ろう。神様が相手を変えてくれるように、ではない。先ず、自分が神の前に出て、自分が変えられるように、である。仮に如何なる状況であろうと、信仰があるならばここがスタートである。このことが出来るなら、必ず神さまは介入してくださる。そして、以前よりもはるかに素晴らしい結婚生活となる。

正三角形をイメージして欲しい。頂点にキリスト、両下の角が夫と妻。三者の距離はすべて同じ。夫と妻の愛には人間同士、そして異性の愛、更に信仰を通した神の愛の姿がある。夫と妻、それぞれは頂点の神に同じ距離で置かれている。神は両者の真ん中に位置している。神の愛、赦し、忍耐、寛容は絶えず上から注がれる。問題が起こっても二人の立つ位置が変わらない限り、必ず耐えられる。神が助けてくださるからだ。昔、男と女が造られた理由は、この形ではなかっただろうか。この形をいつもイメージして、変形にならないようにと努めたい。

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