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■ 主よ我にみ言葉を与えたまえ / イザヤ書6:1~13 (2007-12-16)

アドベント三週目は、預言者がテーマである。 預言者は神さまからの言葉を預かった。 自分が何を思い、何を感じて語るのではない。 主が「言いなさい」と語られたことを人々、民衆、権力者、更には、王にさえ向かって言わねばならなかった。だから、人の顔色を伺って物事を言う人間などには、預言者は務まらない。状況と環境、事態に左右されず、真っ直ぐに、主のみ言葉を伝えた。だから、殆どの預言者は、時の権力者によって惨殺された。 それを知りながら、預言者は神に呼ばれ、そしてみ言葉をひっさげて、世に出て行った。

テモテへの手紙の中で、パウロも語っている。 『あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。』 世人はいつも心地よい言葉を求め、好む。 だが、神の言葉は苦い場合が多い。しかし、食べて腹に落ちたら、甘くなるのが、神の言葉である。 主のみことばは、耳には痛い。しかし、従う価値がある。それは外科医の手術に似ている。今は痛くとも、メスが入り、膿を出し切れば直ぐに回復に向かう。

ルカ16:16にこうある。 「律法と預言者はヨハネまでである」と。 つまり、旧約時代が終わったのである。預言者から神の言葉を伝え聞く時代が終わったのだ。イエスが律法を成就されたから。彼が旧約を成就されたから。イエスから言葉を聞く時代が始まった。

預言の賜物を用いよ。その賜物を求めよ、と聖書は語る。 預言者?そうではない。賜物を、である。 今でも預言者もどきが、たまにいる。しかし、そういう霊を信じるべきではない。 聖書の言葉を預かり、語るのが、預言の賜物であって、自分勝手に喋るのはいただけない。時代の終わりには、そういうのが大勢、世に出て来て人々を惑わすとも、マタイ24章は言っている。

主よ、み言葉を我に与えたまえ。そう言って祈る。 それは世に語り告げる為にではない。そういうみ言葉も勿論ある。しかし、先ず必要なことは、神さまが私に語り、私がみ言葉によって洗われ清められ、力をいただくためである。現代の預言者とはそうあるべきと思う。そこで力を頂くからこそ、証にしろ、メッセージにしろ、聞く側に力が伝わる。その人の力ではない。神さまからの力と勇気であり、聖霊によるからである。

朝、神は語られる。そしてあなたを待っておられる。あなたが世の流れに足をつけ、手を浸し、顔を浸す前に、あなたは神の招きに応えるべきである。 主は毎朝、同じ時間、同じ場所、同じ心で待っておられる。 あなたの魂を主の前に連れて行け。あなたの手を主の方へ差し伸ばせ。主に触れよ。主があなたを引き上げてくださるから。 このような朝のひと時を持たずして、世の戦いに出かけるべきではない。 信仰の盾も、み言葉の剣も持たずして、あなたは何を獲物として奪えるのか? 凱旋する勝利の兵士として、あなたは選ばれたのであって、戦う前に、敵に弱みを握られるような兵士では無い筈だ。 だから、先ず、あなたが主のみ言葉を受けよ。そして預かって世に行け!

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