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■ イエスよ、我を憐れみ給え / ルカの福音書18:35~43 (2009-02-15)

「どうかこれだけは、この一つだけ、願いをかなえてください。」 あなたは、そう思うことがお有りだろうか? 一つだけ、である。そのことさえ、叶えられれば他のことはどうでもよい、とさえ絞りきれる願いがあるだろうか。 「どうか、私の人生を祝福してください。」と言った大まかなものではない。 熱い思いが、そこまで研ぎ澄まされ、焦点を絞れることは、ある意味、素晴らしいと思う。

エリコの町、死海から車で北へしばらく走ると、砂漠の中の大きなオアシスと思える町である。大昔から栄えた歴史ある町。遠くの山々まで見渡しても、木も生えていない風景の中で、エリコだけは青々とした木々と美しい花々が咲き乱れている美しく不思議な町である。 旧約聖書、そして新約聖書でもエリコは登場する。 旧約聖書では、エリコの城は崩壊するが、新約聖書ではイエスの福音のみわざが光り輝いた。 21年前に訪れたが、今も記憶に新しい。

この町に生まれつき目の見えない男がいた。 彼は、いわゆる世間の底辺で生きていた。自分では何もすることが出来ない。 ただ、人さまからのお恵みと、お情けのおこぼれにすがって生きるしかない。実に辛い宿命であった。 その日も、彼は道端に座り、人々が投げ与える僅かなお金を待っていた。 だが、この日は特別な日であった。彼の人生で最良の日となった。 ナザレのイエスがエリコの町にやって来ると群衆が騒いでいたからだ。

イエスの集団が彼の前に近づいた。 彼は立ち上がると大声で叫んだ。 「ダビデの子のイエスさま!どうか私を憐れんでください!」 人々は騒ぎ立てる彼を押し留めようとしたが、彼は叫び続けた。 絶対に、この時を逃してはならなかった。

私達は祈る。しかし、叫びがない。 理性的に祈る。だから叫ぶまで行かない。知性が邪魔をするのだろうか。 なにも叫ぶことが良い、のではない。心の思いと願いが叫びにならない、のである。 そこには熱さが無い。切羽詰ったものが無い。はらわたを抉り出す様な思いに至らない。 もしかしたら、目の前のイエスを意識出来ないからか。 いいや、きっと祝福が豊かに与えられているからであろう。 それとも神さまに対する諦めか・・・

イエスは彼を連れて来させると、こう言われた。 「わたしに何をして欲しいのか?」 盲人は即座に答えた。「目が、目が見えるようになりたいのです。」 イエスは「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救った。」と言われた。

私達は今、見える。それは、この目だけではない。 知識という目でも見えるのだ。 「神さまは見えないが、信仰の目が見えている」と、錯覚しているのかも知れない。 見えすぎて、叫びにもならないのか。 見えすぎるから切羽詰ってこないのか。 見えすぎるから、冷めているのかも知れない。

ここで何故かヨハネ9章、主イエスの言葉が、心に痛く響く。 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。 しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

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