■ 妙なるかな、神からの賜物 / 第一コリント12章~14章 (2009-03-15)

「賜物」、つまり神さまが人間(クリスチャン)に与えられる特別な「力」「能力」と言われるものである。賜物であるから無料であるし、神さまからのギフト(贈り物)である。 信仰が成長する、いわゆるその人の内側が耕され練られ、謙遜になったりする過程で賜物が与えられるのである。

賜物であるから、自分が欲しいと思って貰うものでもなく、狙って貰えるものでもない。 下さる方は主であって、主の持ちものであるから、主が勝手にあげたい人にあげるのだ。 選択権は主にある。だから、場合によっては「それ」を欲しくない人間が貰ってしまうこともある。 でも、戴いた賜物はその人によって、有効に且つ効果的に、それも個人の利益でなく、皆の益であり、主の栄光の現われとして活用されることなる。

賜物を貰った人には理解できるだろうが、貰ってない人には理解しにくいことだ。当然である。貰ってみて、初めてそのことを実感するからだ。

賜物は才能とは違う。才能はタラント(タレント)と言える。 才能だけだったら、イエスさまを信じてなくても、大勢の人が持っている。 小さい頃から訓練した場合など、音楽、絵画、言語、踊りなど多種に渡り人々は得ている。

得手、不得手と言うが、賜物の世界は、そんなことはお構いなしだ。 与えられた賜物を用いる場合、不得手な人は、そこそこ苦労もするだろうが、やがてはその賜物を使いこなすことが必ずできる。それは神さまが、その賜物を生かすべく、働いてくださるからだ。実に不思議で興味深いものだ。そこで「賜物とは実に妙なもの」と考えた。

聖書では「御霊の賜物」と言う。 つまり、御霊なる神によって信者に与えられる能力とでも言おう。 賜物の内容としては、「即別な信仰、教えること、奇跡、癒し、知恵の言葉、他者を慰め励ます能力、知識の言葉、与える能力、異言、異言を解き明かす能力」などがある。 そこで、賜物が与えられる意味と目的を考えてみた。 1、 神さまの働きや力を人々が認めるため。 2、 人々(他者)の益となるため、また人々の徳を高めるため。 3、 そしてクリスチャンたちが一つになるため等々。

くれぐれも言うが、賜物を受けた人はそのことを自慢したり、誇ったりしてはならない。 神さまからの賜物は、決して個人の栄光のためではなく、聖書は第一コリントの12章から14章をしっかり読み込んで内容を把握して欲しい。そうすれば誤解などないのだが。

例えば、異言を語るから救われているとか、霊的に優れているとかの勘違い偏見を持たず、秩序をもって取り扱うことが望ましい。 すべて、聖書の言葉を緻密に且つ前向きな受容性をもって受け止めれば、誤解も生まれない。 「聖書の神は混乱を来たす神ではなく、平和の神である。」(第一コリント14:33節) 賜物は他者のため、そして主の栄光のためである。くれぐれも栄光を自分に帰さないこと、である。

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