■ 弱さの中に働かれる神 / 第一コリント1:26~31 (2009-05-03)

神は人の弱さの中において完全に働かれる。 人間的な強さにあるとき、神さまは働かれない。人間的な我の強さが彼自身を掌握しているからである。又は、彼の自信、実力、キャリア、プライドが先んじており、神を必要としていないからだ。

パウロはギリシャにある教会に向けて手紙を書いた。 主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(第二コリント12:9~10)

神さまの前に弱いからこそ強く用いられる。 これは反比例しているようであるが、聖書の真理であり、正論である。 私が強いときに、信仰者としての私は弱い(用いられない)。 私が弱い(と、自分で認めるとき)時に、私は神によって強く用いられる。

クリスチャンは狭間で生きている。 目に見えるこの世。非常に大きい世界だ。生きて行くためには、関わらなければならない世界。 たくさんの楽しみと困難もあるが、報酬は大きい。チャレンジするにはやりがいのある世界だ。見返りも時として非常に大きい。その見返りのために生きているのが人間でもあるのだが。

もう一つの世界。それは信仰の世界だ。見えない神を信じ、礼拝し、同信の友と祈り、交流がある。 だが、肝心の主人公である神は見えない。教会堂、クリスチャン達、働く現場は見えても、キリストは見えない。 つまり見えない方に仕える世界だ。報酬は当てにしない。そこに意味はないからだ。仕える喜びと感謝だけの世界。チャレンジの度に弱い自分を見させられる。もうやめようか、と幾度も考えたが、いまだにやめられず(やめさせて貰えないのかも。)、既に31年が過ぎた。 言い忘れた・・・ここ15年間、報酬は貰っている。実に有難いことであるが。

頑固一徹、マイペースの老人、ウォルター・コワルスキー・・・彼の妻の遺言は「私が死んだら懺悔とミサをするように」であった。が、彼は教会など行かない。大嫌いな場所である。神さまよりもガンが彼を守る。だが、彼は癌には勝てなかった。 しかし、人間とは幾つになっても変えられるものだと、つくづく思った。 彼は遂に神父の前に懺悔した。自分の心から離れなれなかった幾つかの重荷を神父に告げた。 彼は平安になった。そして残り少ない時間に置かれた自分の体を、銃弾に曝し、死をもって悪を葬り去った。 遺体となった彼のポケットにピストルは無かった。 映画「グラントリノ」・・・ 人間はあれほど強くなれる。それは神の前に弱くなれたからだ。

と、納得しつつ、今日も強い自分がある。これも神の忍耐と寛容のおかげである。 かと言って、いつまでもイエスさまに甘えている訳にも行くかない。パウロの言葉が重くて痛い。困ったものだ。 パウロ、あれほど強い人間をキリストは用いられた。そして彼の強さを徹底的にくじき、彼を弱くした。だからパウロは主に用いられた。これが神の妙である。この世に存在しない世界と摂理を知る事ができて感謝である。

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