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■ 神を信じなさい / マルコの福音書11:11~24 (2009-05-17)

  • マルコの福音書11:11~24
  • 2009年5月17日
  • 読了時間: 3分

ある本にこう書かれていた。 「祈りに力があるのではない・・。」 エッ!本当? 続いてこう書いてあった。「祈りに力があるのではない。神に力があるのです。」 ウン、納得。でもビックリした。そして真理に出会った思いがした。

長くクリスチャンをさせてもらっていると、何となく曇ってくる場所がある。 心?いいや、心ではない。そう、ひょっとしたら自分なりのイメージとか思いが、柱になっているからかも知れない。だから時として人間はショックが必要だ。

ある日、空腹を覚えられたイエスは、道端の無花果(いちじく)の木に目を留められた。 イエスは近寄って見られたが、実は無かった。 聖書は言う。「実のなる季節ではなかった」と。 だが、イエスはその木を呪われた。「もう、誰もお前の実を食べることが無いように!」

納得の行かないイエスのお言葉である。 忍耐、寛容のイエスらしくもない。だって、実のなる時期ではなかったと聖書も言っているのに。 不思議な箇所であるが、やはり事実である。イエスは時期でもない木に向かって実のないことで呪われた。 この場面の意味は、実のならない名ばかりの信仰を振りかざす、イスラエルの学者とか宗教家たちへの痛烈な思いが込められた「行為によるたとえ」であったらしい。

翌日、いちじくの木は枯れていた。弟子達は驚いた。 イエスは弟子達に言われた「神を信じなさい。」と。 「神を信じなさい。そうすれば山さえ動く。」

山のように動かず、解決しようがない問題は、誰の人生にもあるかと思う。 イエスはそれらを「山」と言われた。 だが、神を信じれば(信じきる。信じて疑わなければ)、山は動く、と言われた。 簡単なようで実に難しいと、クリスチャン31年生の私は実感する。 人間の中身は、そう簡単なものではないからだ。 「よし、信じるぞ。信じきるのだ」と幾度、思ったことだろう。 だが、その途端、もやもやとした疑いの雲、不信な霧が立ち込めてくるのだ。 そして、信じることの深さを知る。 「信じきる!」そう思わなければ、気がつかない世界が人間の内にあるのだ。

漢字でいちじくとは「無花果」と書く。つまり、花の無い果樹と表現した。 しかし小さいが花をつけ実をならせる。実があるなら花もあるのだ。花嚢の内部に小さい花をつけているとのことである。そして大きな葉がそれらを隠している。 的を得た漢字であるが、花はある。 そして、私達は「いちじくの木」なのかも知れないと考えた。 葉ばっかり茂って、花さえ見せようとしない実のならない様な信仰生活。 つまり信仰の花は咲くのに他者には見せず、内に隠してしまう性質・・・

そして!マルコ11章は大切な真理を教えていると思う。 イエスが私達を必要とされるときは、当然だが季節など念頭にない。 イエスが必要とされるなら、時も所も構わず私達を呼ばれる。 そして、私達は断る。 自分の都合を言い訳にするか、優先順位は自分が選ぶからだ。 だが、イエスが必要とされるときこそ、神は万難を排しての、最適なタイミングであるのだから、その期を失って結果はついて来ない。 そして後になって私達は、そのことに気がつくのである。

クリスチャンの成長にも乳児期、幼児期、また青年期、成人期があると思う。私達は、その順番で奉仕が回ってくると考える。 だが、神さまはそんなことにお構いなく、呼んでおられる。 器は私達であっても、神さまがお仕事をなされるのだから、幼児が成人の働きも出来る。乳児が青年の働きだってできるのだ。 ここが信じられなければ、私もあなたも未だ神を信じていないと言えないか。

愛する兄弟姉妹、神を信じなさい・・・そう、そのために生きているのだから。否、生かされているのだから。

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