■ 試練(テスト)は恵み / 第一ペテロ1:5~7 (2009-09-06)
ペテロの手紙を読んで感じたことがある。 それは、この手紙の宛先であるトルコ地方のクリスチャン達が、決して熟練した信仰者たちではなく、信仰歴の浅い人たちであったと想像できることである。 だが、現代の私達日本人がクリスチャンになったにせよ、少なくとも5年若しくは10年以上、更には20年経過したにせよ、あの時代で彼らが受けた試みには耐えられないと思う。 一世紀の時代、キリストを信じるがゆえに、自分の生まれた町や村を捨て、見知らぬ国に散らされ信仰を守った若いキリスト者達に大きな驚きと感動を覚える。
試練はある意味、TESTである。 学生が受けるテストは学力を評価、向上させる目的がある。 すべての人間における人生の困難は、試練に耐え、そして磨かれる人間性のためであろうか。 キリスト者のテストもそういう意味合いもあるだろう。 しかし、それだけではないと思う。 私達キリスト者が受ける試練(テスト)は、神を信頼する道に歩み続けるか? 若しくは自分の思う道を生きるのか?が問われる。
私自身、25年ほど前に神からのテストをいただいた。 そして知ったことは、神はテストと共に、試練に耐える力と脱出の道が備えられているということだった。 つまり、私一人で受ける試練ではなく、神が共にいてくださるということである。 ひと月の後、神は私に勝利を下さった。 その時が私の人生にとって、大きな岐路であった。 あのとき、私の道を優先していたら、今の人生は無かったと思う。 私がキリストへの信頼を委ねきったとき、神はそれを見られ「良しとされた」のである。
しかし、試練の最中は現実の厳しさと不条理しか目に入らない。 圧倒的な世の力に倒れそうになったり、信仰に生きることの辛さだけが迫る。 だが、へたり込むそのところで、やはり頼るは神しかいないことに気がつかされる。 そのとき、神の備えの意味を知り必死になって祈ることを学ぶ。 そこで信仰の戦いは私一人ではなく、神が共におられることを知る。
試練は教会生活にもある。 実際、教会の存在する意味の一面はこのテストのためか?とさえ思う。 他者を受け入れ、赦し、赦される。そしてキリストの愛と赦しに出会う。 教会の真価が発揮されるべき場面はここにある、とさえ思う。
人間である限り、キリスト者であるからこその、ミスや失敗をしてしまう。 多種多様な考え方を持つ人々が切磋琢磨し合って、お互いを育てあうのだろうか、と思う。 人間の弱さや欠点は決して喜ばしいものではないが、それが有る故に学ばされる。
イエスの言われた言葉をいつも思い出す。 「わたしはこの岩の上に、私の教会を建てる。」ピリポ・カイザリヤで語られた言葉。 私は幾度その言葉を心で反芻し、その真意を探ったことだろう。 イエスの意図された教会とは、どういう教会なのだろうか、と。 それは現実が余りにチグハグで、イエスの言われた理想像とは違い過ぎるように思えたからだ。
長い時間の後、私に示された幾つかのこと。 それは、欠けある教会は人間、つまりクリスチャン達が造ったのであって、イエスが建てられたのではない。 そして、そういう教会でさえもイエスはご自分の名を与え、営みを許された。 更に、欠けある教会により、信徒一人一人は欠けある自分に出会い、その現場で訓練される。 世の中、どれほどの教会があろうとも、完全な教会は一つも無い、ということ。 それはこの地上にキリストの教会が存続する限り、十字架が要らなくなることは無いということでもある。 願わくは、聖霊が見える教会を建てたい、そう思った。