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■ アンバランスにも意味がある / 第一ペテロ2:9~12 (2009-11-08)

通常、この世でアンバランスという場合、状態、状況、事態、見た目等は、均衡が保たれていないという、つまり、あまり好ましくないことである。 しかし、アンバランスも時として、美しい?場合もあるから不思議である。 アンバランスゆえに、深層心理を理解できる場合もあるのだ。

第一ペテロの手紙2章にこう書かれている。 「あなた方は、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民とされている。 あなた方は、以前は神の憐れみを受けない者であったのに、今は憐れみを受けている。」

そう、大きな転換があったのだ。これ以上の大きな変革はない程のものである。 全く、逆の人間性、人生になってしまったからだ。 神の怒りをかっていた者が、実は愛されていたなんて。 このアンバランスをどう理解しようか。

私とてキリストを拒みつつ、迫害しつつ、しかし一晩で神を愛して恐れる者となった。 だが、実際の自分を考えると、情けないと言うかイエスさまに申し訳ないほど、変わっていないように見えて仕方がない。 確かに毎週日曜は礼拝に行く。 礼拝に行くどころの騒ぎではない。毎週メッセイジをしている。 なのに・・である。 パウロの言葉の様に「誰が、この死の体から救い出してくれるのだろうか。」」と言わざるを得ない。 実にアンバランスである。 よく考えると、救われた自分がいて、同じ自分が罪びとの一人でもあるのだ。

だが、パウロは素晴らしく謙遜なキリスト者ゆえに、この言葉を吐露したのであって、以前の彼ではないのだ。 だからこそ、彼は自分の内側が見えた。 そして、見えたばかりで無く、聖なる明りの中で言葉にした。 更にパウロは「誰が?」の誰を知っているからこそ、あの言葉が言えたのである。

「表裏一体」という言葉がある。 意味は相反するかに見える二つのものが、根本では密接につながっていることを指す。

実は天の父も、その御性質は表裏一体なのかと考えた。 まさか、神さまに暗いところと明るいところなどある筈もない。 まさか、そういう意味ではないが、相反する事実の故に、十字架に神の御性質を見た。

神は聖なる義なる方であり、絶対者である。 一片一切れの罪さえも赦さない方である。 しかし、一方で神はその一人子を人類の罪の身代わりとし、十字架で死なせるほどまでした私達を赦された。 ここに罪は徹底的に嫌いつつ、しかし、罪びとである人間をこよなく愛するという、相反性の現れがあった。

十字架は神の悩み、苦しみ、そのものであった。 我が魂と、この身の弱さを知るとき、天の父の苦しみを僅かであるが理解する。 神のアンバランスは実に美しい。 そう思った。

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