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■ クリスマス・混在する希望と悲しみ / ヨハネ3章16節 (2009-12-13)

福音書でイエスの降誕記事を書いたのは、マタイとルカである。 マタイはユダヤ人(へブル人)に向けて、そしてルカは異邦人に向けて、霊なる神があきらかに時間の世界に介入された事実を書いた。 マリヤの処女受胎、起こりえない出来事である。 しかし、神が為されたのであれば、それは事実として起こったのである。

事実であるのだが余りに唐突というか、嘘の様な感じを与えてしまうので、どうしたら事実らしく伝えられるだろうか?と凡人は考えてしまう。 しかし、信じるか否かは、他者の選択であって、私がどうこうできるものではない。 そこに人間の思惑と工作が絡めば、真実も嘘っぽく思えてしまう。 だからマタイもルカも、ありのままを書いた。そう思う。

私達はクリスマスに対して何を思うだろう。 キラキラと輝く小さな灯りは、どれほど暗い闇にさえも勝つ。 人間の心の暗闇でさえも、キリストの希望の光りがあれば、必ず何とかなる、と思う。 絶望の谷底でも、キリストの光りさえあれば、必ず脱出できる。 つまり、キリストは私達にとって、永遠の希望そのものである。

そしてその一方で非常なる苦痛が天にあったことを忘れない。 神の愛する一人子は、罪の泥沼の様なこの世に送られる瞬間が近付いていたから。 父なる神にも大きな希望があった。 それはイエスの十字架により、多くの罪びとが救われるであろうことだった。 創世記3章が言う神の約束の実行は、神にとって身を引き裂かれるような痛みを伴うものだった。

希望と痛みの混在するところ、それが一番初めのクリスマスであった。 クリスマスを祝うクリスチャン達の心に去来する不思議な感覚と感情は、相反する二つのもののぶつかり合いがある、からではないだろうか。

アパ・ルームの小冊子に一つの小さな出来事が証しされていた。 アメリカはミズーリ州、ある日の午後、勤め帰りのアンという女性は出金のため銀行に立ち寄り、伝票を書いて窓口に差し出した。 職員はちらっとアンを見やり吐き捨てるように呟いた。 「まったく、私を何だと思っているのかしら。人の心が読めるとでも思っているのかしら?」そう言って、職員は伝票をアンの前に突っ返して来た。 その理由は口座番号を書いてなかったかであった。 それは、アンの気持ちを傷つけるのに充分過ぎる対応だった。 アンは、このことを職員の上司に告げようと、瞬間的に思った。 だが、アンは少し冷静に戻って考えた。 (この人は以前、キビキビと対応してくれた人なんだわ。) そして、職員の女性に向かって聞いた。 「何か、気に掛かることでもあるの?」 その途端、職員はその場で泣き崩れ「今日、私の娘が手術を受けているの。でも傍に居てあげられなくて・・」と言った。 アンは手を伸ばして、職員が泣いている間、ずっと彼女の手を握り締めてあげた。 この一件は職員が仕事を失わずにすんだことと、職員はアンに対して今までよりも更に好意を持って対応をしてくれる様になった。

辛いこと、しかし、その辛さゆえに新しい局面が開かれる。 日常生活のどこかで起こっていることでもある。 辛い瞬間であっても、当人にとって希望へのきっかけとなるなら、本当に救われることである。 私達が人生で体験するこれらの出来事とは比べものにならない感情を、神は背負ってくださった。 今年も聖なる赤子をしのびつつ、神の痛みを感じさせていただきたい。

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