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■ 最初のクリスマスは・・あなたのため / マタイ2:1~16 (2009-12-20)

ピーター・ラーソンという先生がこう言われたそうだ。 「イエスの生涯は不可能で始まり、不可能で終わっている。 つまり、処女の受胎と死者のよみがえりである。 イエスは《入るな》書かれた扉からこの世に入り、《出るな》と書かれた扉から出て行かれた。 そして神は閉め出そうとしても必ず入って来られる。」

人間の心が神を閉め出そうとすればするほど、心にはやたらと隙間ができてしまう。 無関心こそが最も隙間が無いのかも知れない。 だが無関心は怖い。無関心に明るい未来は無いからだ。

初めてのクリスマスは本当に人類のためであった。 しかし、時を経て変わった。 人間のためであるより、「この世のため」にしてしまった。 イエスがお生まれになった時からどれ程の誕生日を重ねて、神を信じる人々が祝う様になったのだろう。 100回であろうか、若しくはそれ以上か。 当時の信者にとって大切であったことは、誕生日よりもイエスの「死とよみがえり」であったと思う。

イエスがお生まれになったとき、この世の欲と権力、王とその周囲が最もそのことを恐れた、と聖書は言う。 彼らはあらゆる悪知恵を寄せ集め、ベツレヘムの幼子を惨殺した。 悪魔ではない。人間がしたのである。 イエスのご降誕を喜んだのは、異邦人である当方の博士達と羊飼いだけであった。

キリストがお生まれになったことに三つの目的を見る。 一つ目、『人間が罪を自覚するため』である。 人間は言う。「神などいない」「神など必要ない」「「自分の好むものを神とせよ」と。 これらは全て、私達が親から受け継いだ遺伝子である。 親から子へ、子から孫へと無言のままで、この性質は遺伝子の如く、浮け繋いでいる。 誠の神を拒み、自己中心に生きる性質を継承している。 しかし、福音書からイエスの言動を見聞きし、生きたイエスの実像が私達の前に立たれるとき、私達は誰一人、自分に罪など無い、と言い得ないのである。

二つ目、『キリストが罪から解放する道となられた』のである。 イエスが道であり、真理であり、命である。そしてイエス以外に天に至る道はない。 だが、多くのクリスチャンは、それ以外の道もあると考えている。 だから、それだけに拘らない。実に不思議な現実である。 だからイエスは言われた。「天に至る道は狭い・・」と。 だが覚えよう。人間の善行、慈善がイエスより先行することは無いことを。

三つ目『神は私達と共に生きてくださる。』 キリストと生きる人生。これがすべてである。 キリスト者は一人で生きることはしない。キリストと生きる。 主はそのためによみがえられた。 キリストと生きる。ここに罪を見分け、罪の自覚が伴う。 そして、罪の赦しを日々、体験する。 生活の中での自覚なくして、悔い改めなど縁遠いものである。 イエスは私達と生きるためにこの世に来られ、そしてよみがえられたのである。

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