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■ ヨシュアの告別 / ヨシュア記24:14~29 (2009-12-27)

ヨシュア、エジプトを脱出し約束の地に向かったイスラエルの旅に欠かすことの出来ない人物である。 若くして素晴らしい器であった。モーセを助け、神と人に仕えたが、彼自身は非常に強い意思と人格の持ち主だった。 強い性格と意思を持つ人においては、神にへりくだることは容易いことではないが、ヨシュアは違った。 彼は神の前に強く立つことが出来、更に軍人として際立った賜物を持っていた。

カナンに踏み込んだイスラエルを迎えたのは、水音高く流れるヨルダン川の濁流であったが、ヨシュアは信仰によって神に従い、その川を渡った。 そして高くそびえるエリコの城壁を目の当たりにしたヨシュアは神のみ言葉に従い、7日間で城壁を落とした。 それもすべて彼が神に従い通したからであった。

やがて年老いたヨシュアが遂に告別の言葉をイスラエルに突きつけるときが来た。 ヨシュア記24章14節より 『今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。 あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。 もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。』

この言葉を目にするとき、私はいつも自分に語られたと思う。 この日本、八百万の神々がいるそうだ。 だが、神が800万もいる筈が無い。 日本人が作り出した偶像が、それだけあるということである。 そういう風土に私達は生まれてきた。 幼児期からこの風土に慣れ親しんだので、何の違和感も持たなかった。

しかし、ある日、救い主キリストに出会い、環境にいたものは、すべては偶像であったことを知った。 生きておられる神は唯お一人、天と地を造られた主である。 クリスチャンとなり、唯一無二の誠の神を「信じた」のであるなら、「信じた」に相応しい生き方がある。 それにも関わらず、以前と同じ様に生きているのでは、宗教的姦淫、霊的姦淫を犯していることになる。 聖書はくどいほど、そのことを私達に語る。

ただお一人に生きておられる神を受け入れたのは、誰のせいでもない。 私の選択であった。 そして今、その神に従うか否かも私の選択である。 しかし選択はしたが、それ以上進まないなら選択した意味は無となる。 私達はいつも、このことを問われていると思う。 小さいことでも迷う時があるし、大きなことでも簡単に選択できるときもある。 しかし、覚えよう。 迷うことは、ある意味素晴らしい。 それは自分の心を明確化することであり、神にゆだねるチャンスであり、後悔しないことを決心する時だから。

2009年、私達は岐路に立ったことが決して少なくなかったと思う。 そのとき、未来を考え、信仰に照らし合わせ、価値観を計った。 ただ、目の前を考えただけでは無い筈だ。 ヨシュアの告別の言葉を我が身と我が魂に問うことは、決してマイナスにはならない。

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