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■ 絶不調の時もある / ヨブ記13:15~28 (2010-02-07)

絶好調と言う言葉はあるが、絶不調という言葉はない。 しかし、絶不調を感じる精神状態は時として感じる。 絶好調は長く続かないが、絶不調は長引く様に思えてならないのは、果たして人間の感情ゆえであろうか? 現代生活は特に絶不調が多いように思えて仕方が無い。 試練にも種類が増えて、対処も難しい時代であるが、それだけ神が人々を呼んでおられるからかも知れない。 絶不調の中でこそ、神に巡り合えるチャンスであると思う。 ならば、絶不調を毛嫌う必要もないのか・・・

信仰にも人生にも、大きな谷(絶不調と思えるとき)がやってくる。それは苦しみ悲しみの谷である。 その谷のど真ん中に置かれた時点では、感謝など程遠い感情であるが、そこから脱出して暫くの後、振り返ってみて気付くのは「谷の有難さ」であった。 あの谷によって鍛えられ、あの谷によって訓練されたことを、つくづくと悟るものである。

一番苦しい時こそ、神に最も信頼を置くべき時である。 神を信じることに一番難しいときこそ、神が最も傍におられるのだと思う。 神さまは得てして、そういうお方であるからだ。 だから、信じられるから信じると言うのは、決して聖書的信仰ではない。 信じられないときに信じることこそ、信仰だと思う。 信じるというのは、自分から踏み込んで行くことであり、信じられるとは傍観者の感想を言う。 聖書の神、唯一、誠の神さまが人間に望んでおられることは、「信じる信仰」だと思う。

ヨブを襲った極限とも思える試練は、彼から全てのものを奪い苦しめた。 それはヨブが神の前に自分の心を裸にすべき、ときとなった。 以前のヨブであるなら、ここまで自分の心を言葉にすることは、あり得ないものであった。 しかし、ヨブは今や失うものは無くなっていた。 残されたものは、やはり神への想いと神からの言葉を待ち望む思いであった。 凄まじいばかりのヨブの叫びと、友人達の神学論を聞いていて、そこに私達が解説や批評はおろか批判も出来ないものを感じる。 それは、彼の様な人生を体験していない自分であるからだ。 知ったかぶりに口を挟むこと自体、余りにおこがましいのである。

天地創造の主、全知全能の唯一誠の神は絶対主である。 私達人間が絶対主と認めずとも、主は絶対主である。 無条件、無制約、純粋、完全で、御自ら独立に存在される唯一の最高存在である。 そして十字架は、その神が人類に与え給うた賜物である。 イエスさまの十字架は何故、あれほどに厳しく残酷であったのか? 何故、ひと思いに殺されなかったのか? そこに、絶対主の罪に対する憤りを見る。 人類の罪が、いかに神の怒りを呼び、苦しみもがく必要のある生贄であり、代価であったのかを、人間は十字架を通して実感すべきであろう。 そこにおいてこそ人は己が罪の醜さとおぞましさを知るからである。

イエスの苦しみと、ヨブの苦しみは同じ苦しみではない。 苦しみの意味、所在地も次元も世界もが異なる。 ヨブは苦しみを通して、再び神の声を聞き、神を知り、本物の神に出会った。 イエスは全人類の罪を負い、神の愛が完全に切り取られた十字架で、皮膚は破れ、肉片を散らしてひたすら痛み苦しんだ。 すべては世びとの罪の赦しと、救いのためであったからだ。

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