top of page

■ 信じられないときこそ神を信ぜよ / ヨブ記1:1~22 (2010-02-28)

  • ヨブ記1:1~22
  • 2010年2月28日
  • 読了時間: 4分

神に愛されているキリスト者はサタンにとって格好の敵ともなる。 私達は決して望みはしないが、サタンが攻撃を仕掛けて来る位の信仰を主に対してもつべきであろう。 サタンが安心しきって居眠り出来る様なキリスト者では主の御名に申し訳ない。 礼拝は時間を潰す程度、賛美も形だけの口パク、そうして日曜の午前中をやり過ごす程度では、サタンはニンマリ得意顔だろう。 それでも、教会に行かないよりは益しではあろうが・・・

サタンはヨブに目をとめた。 「ヨブの様に善良で正しい生き方が出来るのは、おびただしい程の神の守りと祝福があるからだ。くそ面白くも無い。神の守りと祝福を失えば、奴は必ず神を呪うに違いない。」 これがサタンの目論みであった。

ヨブ記をメッセイジすることは、ある意味、非常に苦手な対象であった。 旧約聖書の中でも異様な光を放つヨブ記であるが、はっきり言って敬遠したいのである。 彼の信仰の強さ故か、どうしても彼の重苦しい人生が自分と重ならないからか・・・ しかし、今回は多少腹を括って取り組んでみたら、何と素晴らしい書物だろうかと思った。 ヨブ記は大半が嘆きと非難中傷、そして自己弁護であるように感じた。 最初と終わりの章以外、あまり読みたくないと思っていたが、そうではなかった。 確かに中身は思ったとおりであるが、そこに潜んでいることは人間の限界と哀しみの呻きであった。

ヨブ記を読んでいて、思わず、そこに自分を見出してしまうほど、私達と隣り合った人間性を感じ取れた。 結局、人間とは実に限りある生き物で、そして狭い世界で生きている。 それに引き替え、神はゆったりと大らかに構えておられる。 ヨブも、三人の友も、見える世界で知り得た神観を戦わせているだけであるが、私とて同様であると、認めざるを得ない。 神が傍に居てくださらねば、その神を信じきる者でなければ、誰一人突き抜けたキリスト者にはなれない。

たった57セントの信仰が莫大な金を呼び、チッポケな教会が五年後には3千人を収容する会堂、そして教会付属の病院を備え、更に大学さえも建てられた。 確かに偉大な奇跡であるが、それは全能の主が57セントの信仰さえも良しとされたからである。

アメリカはフィラデルフィアに起こった実話がある。 今から120年前、19世紀の終わり頃、やせ細った一人の少女が教会の玄関で泣きじゃくっていた。 通り掛かった牧師は彼女にそのわけを聞くと、日曜学校には彼女の入るスペースが見当たらない、とのことだった。 牧師は哀れみ、彼女の手を引いて日曜学校の部屋に連れて行った。 その晩、彼女は嬉しくて早速祈った。 「神さま、たくさんの友達と一緒に遊んだり勉強も出来る会堂をください。」 その祈りは毎晩、ベッドの上で祈られ続けた。

極貧の家で育った少女の体は既に病魔に蝕まれていた。 二年後、遂に彼女は天に召された。 どうして全能の神であるなら彼女を救えなかったのか? どうして、神は彼女を見捨てられたのか? 彼女の祈りは神にとって、単なる子供の寝言程度のものだったのか? ・ ・・と、私達でなくとも感じてしまうだろう。 しかし、神には神のご都合があったのだ。

少女の両親は目をかけてくれた牧師に葬儀を依頼した。 痩せて小さい彼女の遺体を前にして、牧師は祈り、棺に移そうと彼女を持ち上げたとき、ベッドに小さい財布が残った。 それを開けてみると、57セントの小銭と紙切れが入っていた。 紙切れには幼い文字で「このお金は大きな会堂を建てるためのものです。」とあった。 牧師はこみ上げる涙を堪えながら、今、自分が為すべきことを、神に示されたと信じた。

次の日曜の朝、あの財布と紙切れを前にして、彼は会衆にメッセイジした。 このことは神からのチャレンジではないか、と会衆に訴えた。 そして会衆と執事を激励し、大きな会堂を建てるためのプランを示した。 この話しを聞きつけたローカル新聞社はそれを記事にしたところ、多くの人々を励ました。 が、話しはここからである。

その新聞記事を読んだ不動産会社のオーナーは、手持ちの価値ある土地を教会に売りたいと、相談を持ちかけた。 しかし、牧師は土地の大きさと場所を聞いて、尻込みせざるを得なかった。 だが、オーナーはしたり顔で、こう言い放った。 「この土地を57セントでいかがですか?」

教会はこぞって献金し、遠方からも送金された。 それは誠に莫大な金額となった。 教会は会堂ばかりか、教会付属の病院さえも造った。 土地は更に買い増され、用地は広大なものとなった。 やがて、大学がそこに建てられたが、そこが教会の土地であったため、「テンプル大学」と名づけられた。

ペンシルベニヤ州フィラデルフィアのテンプル・バプテスト教会の玄関には、57セントを献金した、かの少女の肖像画があり、その隣には「ダイヤモンドの土地」を執筆したラッセル・コンウェル牧師の肖像画も並んでいる。 是非共、行って見たい場所である。 神にとって不可能はない。 神は無限である。 無から有を呼び出される神は、天と地を造られた神、イエス・キリストの父なる神である。

最新記事
アーカイブ
タグから検索
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square

© 2016 by Choufu Minami Christ Church . Proudly created with Wix.com

  • Facebook Social Icon
bottom of page