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■ 神よ、あなたはどの様なお方なのですか / ヨブ記40:1~14 (2010-03-14)

イルカ漁のドキュメンタリー映画がアカデミー賞を獲得して、世界に知られてしまった出来事があった。 地元にも相応な言い分があり、日本、海外、そして歴史観や文化論、動物愛護論など盛んな意見が行き交っている。 しかし、時代と文化、歴史観、価値観は常に変わって行く。 同じ日本人として考えて見ても、何とも漁の方法が残酷であることは間違いない。 食の問題として考えても、何もイルカまで食わずとも・・・と感じてしまう。

最近、私の住む区域でも頻繁に狸などの生き物が出て来ている。 ハクビシンやアライグマなど外来種もふんだんに居そうだ。 人間を恐れない生き物達は、家の天井にまで入り込んで巣を作ったりするため、人間からは毛嫌いされている。 そして罠を掛けられたり、見つかり次第、殺されている。 しかし、特別に人を襲ったりしているわけでもない。 だから何とも憐れでたまらない。殺さずとも、山不覚に返すとか方法がないものだろうか。 動物を直ぐに殺すといった生活の現場を感じて成長する子供達への影響も考えるべきではないだろうか。 やはり命は尊いのであるのだか。 感嘆に人を殺す事件は、やはり成長段階や生活の中で失われた「命の尊厳と思いやり」に拠るところも少なく無い、と私は思う。

最近、礼拝説教で「牧師の仏心」と深く考えもせず表現して会衆の笑いをかった。 確かに聖書の世界は血を流す場面が多い。 また、自然界の生き物への思いやりも意識しない様な表現も多い。 何しろ、テーマは人間の罪であるから当然であるが・・・ 年のせいもあり、日本人である私は、ついつい仏心が疼いてしまう。 創造主がお造りになった命なのだから、もう少し憐れんで欲しい、と思いつつ、蟹や魚といった海のもの、そして牛や豚の肉を美味いと感じつつも、その肉の向こうに、それらの生き物の姿や顔を感じてしまうが、ここにも答えは出て来ない。

ヨブは、彼の人生に起こった非情な出来事の答えを神に求めたが、神は沈黙され続けた。 一方、ヨブたちの会話から人間を愛する神の存在を考えるとき、私は両者が益々分からなくなった。 神は人を慈しみつつも試練を与え、片や神を知らない人間達は自分流に神を考え、自分流な礼拝をする。 何れも1プラス1、イコール2にならない世界である。 そして神と人の互いが回復する接点が何であるのか、どうもわかりづらい。 そこに明確な答えを見つけ出そうとすること自体が間違っているのかも知れない。 私は人であって神ではないから、神の心は分からない。 ただし、人はあくまで被造物であり、神が主権者、創造者、絶対者であることをもう一度考え直すべきであるとも思った。

「すべての人は罪を犯した」(ローマ書3:23)、「義人はいない、一人もいない」(同6:23)。 それでも神は救いの手を差し伸べ続けられた。 その愛の深さを人間は解らない。 解ろうとして、解らなければ、それが神である。だから神である、とした方が良いのかも知れない。 所詮、人は有限な生き物であり、神は永遠、無限な方である。 人が作り出した宗教であるなら、答えは簡単に出るであろうが、神が造られた世界であるから解らぬことが多い。 それを当然として生きることのほうが賢い、と思った。

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