■ あらゆる努力してますか? / 第二ペテロ1:1~10 (2010-07-18)
クリスチャン信仰は自力でやるもんではない。 当然であるが、人はいつの間にか自分で頑張っている。 何故?それが人間の本性だからである。 何もガッカリすることなどない。大体の人間がそうなのだから。 しかし、こういうことを知っておくことは必要である。
自分で頑張らない人っているのだろうか? 我を張り通す、これも頑張りだ。 道を譲らない?これも頑張りだ。 頑張っていると自覚させない人間の業である。 わが道を決して変えない?いいや、変えられないのだと思うが・・・。 こういった御仁には「もう神さまにすべてゆだねました・・」などとほざいて欲しくない。 その言葉自体、「頑張り屋さん」だからこそ言えるのだ。 ああ、願わくは私だって一日も早く、頑張るマンを辞めたいのである(泣)。
自力でなく「努力の人」がいい。 努力して努力して結果実らずとも、あまり引き摺らないで又のチャンスを待つ・・・とか。 その努力さえも神からの助けの下にあることを認めざるを得ない。 牧師を16年やらされて?ふと気がついたことがある。 「今更?」と言われそうだが・・それは「神は創造者」であるということだ。 頭で知ってはいたが、実際体験することは多くはない。 本当は毎週体験しているのだが、気がつかなかっただけである。 牧師は毎週、頭に鉢巻してメッセージ・ノートに向かい合っている、と想像する。 ああ、メッセージさえなかったら・・と多くの牧師は感じているだろうか。
中には非常に優れたメッセンジャーもおられ、二週くらい先までメッセージを書き上げている先生もおられる。実に驚きである。 だが、私は敢えて・・出来立てのラーメンではなかった、メッセージをデリバリーしたい。 伸びた麺より熱いうちに届けたい。(まあ、それだけの脳しか無いのだ) 一週間、何かを熟成している積りで過ごす。その結果としてメッセージが書きあがる。 書く、のではない。上から落ちてくると言うか、湧き上がってくると言うか、分からないのだが、結果はいつもそんなところである。 つまり、自分には能力も力も無い。 ひたすら待つのである。自分にあきらめて待つ・・・ こう言うと聞こえはいいが、事実は大分違う。 つまり、かなりあせっているのである。 あせらないで書ける週も当然ある。 「今週は主が気前良く天の倉の戸を開かれたぞ!」と喜び、日曜が待ち遠しい週だってある。 そういうときのメッセージに限って反省点が多いのは何故だろう。 多少伸びたラーメンも案外、妙味があるかも知れない。
不安の霧が立ち込める。 参ったなぁ・・と思いつつ、机に向かう。 祈る。何はともあれ、紙とペンを用意して。 あまり深く意識しないで、先ず、月と日と聖書箇所を書き留める。 困ったことに主題がまだ来ない。 敢えて焦点を絞らずに聖句から思い浮かぶことを書き始める。 すると自分云々ではない、別のところから助けが来る。 つまり主が私を助け、導かれ、終わってみれば二時間程で書き上げられた。 祈りつつ、思いを馳せて一週間、だが、今週も守られた。 神は実に無から有を呼ばれる方である。(ローマ4:17) 無になれば神が有を呼んで下さるのであるが、どうも私は頑張ってしまう。 しかし、もしかして主は既に働いておられるのだ、間違いなく。