■ 偽者 / 第二ペテロ2:1~10 (2010-08-15)

世の中、偽者だらけである。 骨董品を鑑定する長寿番組があるが、実に面白い。一番愉快に感じていることは持ち主のスゴイ期待を裏切って殆どタダ同然の鑑定がついたときである。 会場のお客さん同様、テレビを見ている私も妙に愉快であるが、それは他人の不幸を喜ぶ皮肉な人間の習性の一面かもしれない。 しかし、よく考えるとおぞましいことである。 そして世の中、何とニセモノが多いことかと、あきれてしまう。

聖書の世界にも偽者はふんだんに登場する。 旧約時代から新約時代、次から次へと登場するし、イエスもそのことを警告を込めて指摘された。 しかし、おそらく偽者は、自分が偽者と決して思っていないのだとも思う。 「我こそ本物、真理である」と思って活動しているだろうと想像する。

ニセ預言者、二セ教師、二セ牧師、二セ信徒と登場するが、偽者は別に遠くからやって来たのではない。 仲間内とも言える近距離、若しくは身内の様に近い存在が、ある日、突然に妙な宗教観とか論理を言い始めたりする。 そういう人に限って、やけに目立つ存在となって人々の好奇心をくすぐることに長けていたりする。 もしかしたら、彼が言うことが本当かも・・・ だが、変だと気がついた頃には、仲間をぎょうさん囲っていたりする。 これが怖ろしい結末となる。

偽預言者、二セ教師などに顕著に見えるのが、その生き方であるとペテロは書いている。 特に性的に堕落した生活ぶりがそれを証明していると。 聖書は性に関して、実に手厳しい。当然である。性は神に祝された聖であるからだ。 神は人に性の喜びを備え、祝福された。それは単に快楽の道具としてのみでは無い。

聖書が嫌う二つのこと。 一つは好色的な生き方である。これは様々な憎むべき罪の中でも際立って上位に掲げられている。 もう一つは『神以外の存在』に対し期待、信頼、欲望などを抱くことを『あなたは神に姦淫を犯した』と指摘する。 実に厳しく性を見つめさせるのが聖書である。 それだけ、人間の内側と行動を神が見張っておられる、と言うことなのだろうか。

私たちはプレーン(Plain)な人生を生きることが望ましい、 地味で、落着いた、質素な生活・・・何か現状とかけ離れている様にも感じるが、この様な生き方には、きっと高潔な精神が宿るのであると思う。 こういう生活はやはり神の前に生きることからである。 聖書の言葉に親しみ、日々主と主の言葉に出会う。これを継続することである。

人はパンのみ(生活だけに重心を置く生き方)で生きるのでなく、神の口から出る一つ一つの言葉による。(マタイ4:4) イエスはこれをサタンに向かって言われた。 サタンは人間の性と生を支配すべく、魅力的なものを絶えず人の目の前にぶら下げる。

それは食べるに良く・・・ 目に麗しく・・・ 賢くするように思え・・・ 実に好ましく思えた。 そして人はそれを取って食べた。そして人は霊的に死んだ。(創世記3章より)

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