■ 神があなたを呼ぶ / 第一サムエル記3:1~10 (2010-10-31)
旧約聖書の冒頭、創世記から数えて七つ目に「士師記」という書がある。 いわばカリスマ性、優れた武力、並外れたリーダーシップ、鋭い信仰、といった力や才能を持った人たちがイスラエル民族を助け導いた記録である。 そこには映画のモデルになったサムソン、信仰者としてのギデオン、更には悲劇のヒーロー、エフタなど多岐に渡って登場する人物達はユニークで個性があってめざましく、様々教えられる。
しかし、「士師記」、この書の中盤以降から一つの言葉が私にあることを予期させる。 それは・・・・ 「その頃、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」 と、いう言葉である。 結局、イスラエル民族は神の選ばれた神の民であった。 モーセ、ヨシュアという二人の強烈な信仰を基盤とするリーダーによって、奴隷の地であったエジプトを脱出し、荒野の40年間の後、ヨルダン川を渡り約束の地に辿りついた。 ヨシュア亡き後、各地において士師たちが入れ替わり立ち代わり民の一部を率いていたが、それはあくまで過渡期であったからだと思う。
確保した土地に住んだため他民族と紛争は尽きず、日々戦いに明け暮れていた。 彼らが望んだのは、彼らの上にいて国民を統率し戦場に赴く王であった。 そこには神を信じ生かされる民から、戦いを先導し勝利によって生き残ることに価値を感じたのかも知れない。 そういう民の心には、神の言葉は降りようもなかった。 「その頃、神の言葉はまれにしかなく、幻も示されなかった。」時代であった。
ある意味、信仰の霊的退廃期であったし、後退期でもあった。 神殿祭司の心にも耳にも、神の臨在は遠く思え、聞けるべき霊の耳も、従う心も廃れていたのであろう。 そういうとき、イスラエル人は「神が良いとされることよりも、自分の目に良いと思うことをしたのである。 それは既に選民ではなく、単なる人間達であった。 と、なれば神の声があったとしても、聞き取れないない状態である。 私達とて同様である。 最も虚しく、渇いた感情と生気のない日々であるが、神が突破口を開かれ無い限り人はそこに佇むしかないのである。
この様な時であったからこそか、神は「最後の士師」(私はこう呼びたい)を起こされた。 それがサムエルという人だった。 彼はまだ幼かった。宮に預けられ面倒を見てもらう立場でしかなかったが、神は彼を呼ばれたのである。
神が少年を呼ばれるのが旧約時代であるなら、誰でも聞く耳を持つならら聞けるのはクリスチャンである。 だが、肉の耳ではない。聖霊の声を聞きたいのなら、神によって霊の耳を備えて貰わないと聞けない。 神はひとりひとりのクリスチャンに語られる。 あるときは聖書の言葉で、あるときは聞こえぬ声をもって。 聴きたいからではなく、語っていただきたい、が大切である。 聴くからには従います、が大切である。 そういう心を用意して主の目に座るとき、神は必ず語られる。