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■ イエスはその為に来られた / ヨハネの福音書3:1~16 (2010-11-28)

南半球のクリスマス・シーズンは気の毒な面がある。 それは夏のクリスマスだからである。 やはりクリスマスと言うと、積もった雪、晴れ上がった冬の夜空に輝く星。 見渡せば点々と灯る各家の明かり。 クリスマスには欠かせない情景であるが、これが夏だったらと思うとイメージが合わない。 合わないがカレンダーを替えるわけには行かない。 しかし、イエスが来られた地域には雪など殆ど降らない。たまに積もってもうっすらである。 サンタなど、当然いなかった。 つまり、人間がクリスマスのイメージを造ったのである。

一番最初のクリスマスがいつ頃かというと、記録にはないが1549年頃らしい。 その3年後のクリスマス・ミサに関しては記録がある。 どちらもフランシスコ・ザビエルが司式したとのことである。 故郷を離れ、アジアを転々としながら、辿りついいた島国で迎えるクリスマスはどんな思いであったろうと思いをはせる。

み子イエスの御降誕を待ち望む数週間を降臨節、または待降節(アドベント)と言う。 12月25日のクリスマスを基点にし、さかのぼった4つの日曜がまたがる期間である。 日曜の朝ごとに一本ずつつけたされるキャンドルの小さな灯りは、決して小さくはない。 どんなに小さい灯りであっても、闇はそれに打ち勝てないからだ。 イエスは人の心の灯りとして降りて来られた。 心が明るくなれば、苦しみや悲しみ、病さえも乗り越えられる。

それだけではない。 心に明かりが灯れば、必然的に自分の心の闇が浮かび上がる。 外から照らされる光りは望まなくても、内側の光りに人は逃げようがない。 イエスは「そういう光り」である。 だから、人間は本能的に拒むのか? それとも恐れるのか? そして逃げるのか?

ニコデモという人から、人間の誠実、真摯、謙遜を学んだ。 彼は律法のラビ(師)であり、ユダヤ人の指導者であった。誰からも尊敬された。イエスより10歳どころか20歳も上であったと思われる。 大勢のユダヤ人指導者はイエスを嫌っていた。 そんなニコデモがある晩、イエスを訪問してこう言った。

「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」

夜、イエスを訪問したニコデモの心を想像する。 確かにユダヤ人の指導者が、最近大騒ぎをされているナザレの大工の倅を訪問することは通常有りえない。 周囲の目もあったろう。だから、夜であった。 確かにそう思う。しかし、仮に人に見られたら、もっと大きなスキャンダルになり得るかも知れない。 それでもニコデモは敢えてイエスを自分から尋ね、経歴も知らない無学な若者をラビと呼んだ。

人は自分と比べて、相手の社会的地位が高ければ敬意を払う。 相手が知名人であれば尚更である。 相手によって自分の位置を計り、そして対応する。 しかし、ニコデモにその様な態度を見ることが出来ない。 彼は普通の人間が持つ視点を持たなかった。 ニコデモがこれまで求めつつも求めようが分からない神が、イエスにおられるのを疑えなかった。 自分には理解できない力をイエスに見たのである。

ニコデモの心を探求することは私達の益となる。 何があのニコデモを突き動かしたのか? 殆どの人間がイエスに対し、見下げ、嫉妬と妬みを持ち、あるいは癒しや永遠の命だけを求めたのに比べ、ニコデモはイエスに神聖を見た。 すべてが彼の物理と神学で照らしても分からない。 だがニコデモはその晩、人は生まれ変れば、神の国に入れることをイエスの言葉から知った。

神は実にその一人子をお与えになった程に世を愛された。 それは御子を信じる者が一人として滅びず、永遠の命を持つためである。 (ヨハネ3:16)

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