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■ アブラハムの子孫を石ころと呼んだ男 / ルカの福音書3:1~18 (2010-12-12)

December 12, 2010

2千年前、神の選民であるユダヤ人、しかも宗教熱心な人々を切って捨てた男がいた。
 別に切り殺したのではない。
 自分たちこそ宗教熱心であり、他国民、他民族とはひと味もふた味も違うのだ、と自負して止まない人々がいた。
 「血筋で言うなら、我らはアブラハムの子孫、ヤコブの子孫。どうだ、お前達の誰が我らに匹敵できると言うのか。」と傲慢豪語していたのである。
だが、たった一人の男が彼らの前に立ち塞がった。
そして真っ向から彼らを見据え、足元を指差して言ったのだ。
 「見よ、神はこの石ころからでも、アブラハムの子孫をお造りになれるのだ!マムシのすえ共!」

 

バプテスマのヨハネ、姿身なりは何とも奇怪であった。
ラクダの毛衣を身にまとい、腰に皮の帯を締め、食べ物はイナゴと野蜜であったと聖書は言う。
2千年前にして、その様相とかもし出す雰囲気は、この世という俗世間から身も心も断ち切ったものであった。
 彼はヨルダン川でバプテスマを授けていた。
 「神の国は近づいた。あなた方の人生と魂を悔い改めて神に帰りなさい!」
ユダヤ全土から大勢の群集がヨハネの元にやってきて、罪を悔い改めバプテスマを受けた。。
 

そこで、私はふと思った。
 現代こそ、私達は「悔い改めのバプテスマ」を受ける必要があるのかも知れない。
イエスを信じて受けたバプテスマは一度限りでよい。
 但し、やはり罪を犯す私達であればこそ、犯す度にバプテスマを受けたらどうだろうか?
まあ、犯すたびであったら、風呂に入る如くでは間に合わない。いっそのこと、浸かりっぱなしになる可能性も大有りだ。
 先ず、牧師が一番先に・・・誰が授けるかが問題ではない。
 受ける当人が、その意味だけおしっかり自覚すればよい。
 続いて、教会役員や長老、そして教師・・・後は教会員といった様にである。
 

おそらく、神学的におかしいと言われるだろうが、信仰とは裸の魂と生き様で取り組んでいるのであればこそ、そこで神学に登場して貰わずともよい。
おそらく当時の民衆は、そういう思いではなかっただろうか?
 自ら宗教熱心を着ているような集団は、何かにつけてヨルダン川で沐浴し、修行をしていた。
それが許されない一般の民衆は、ヨハネの言葉を聞いて、真摯に自分の罪を認め、ヨハネからバプテスマを受けたのだと思う。
21世紀、せめて年一度、あからさまに大きな罪を犯した者は、悔い改めと告白をもって、バプテスマを受ける。
 私など、大いに賛成である。
 勿論、私は一番先に受ける必要がある。
 授けるお相手は、教会で最も弱く小さい存在が良い。
 

パリサイびと、サドカイびと達は当初は怪訝な目と思いでヨハネを見ていたのだろう。
しかし、ヨハネからほとばしり出る鬼気迫る真実の叫びは、まさに神からのものとしか思えないものであった。
 余りに多くの民衆が列をなして集まってくるので、自分達の居場所がなくなり、こそこそとヨハネの前に出て行ったのであろう。
その彼らに向かって投げつけられた言葉は、実に容赦の無いものであった。
 穴があったら入りたい、と感じてしまうほど赤面に至りであったろう。
 

私達クリスチャンとて、少なからず似た様なものかも知れない。
 救われたのに・・希望がない。これ以上何を見てどう信じたらいいのだろう?と迷っている様な顔で礼拝に出る。
 (今日の説教は私には関係ありません。聞くべき人は、あそこに、そこに座っている人ですから)と心で呟く。
 毎週の礼拝が当然であって殆ど休まない。(ほら、出来るものなら、やってごらんよ、私みたいに。)
 奉仕など熱心に。(どう?信仰者ってこうあるべきなんだよ。)
 

やはりヨハネの声を聞こう。
 「マムシのすえたち。誰が必ず来る、み怒りを逃れる様に教えたのか?
 神は石ころからでもアブラハムの子孫をお造りになれるのだ。」
そして何とイエスでさえ、ヨハネから「そのバプテスマ」を受けられたのである。
マタイ3章15、16節
 

 

 

 

 

 

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