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■ すべては神さまの御心のままに / ルカの福音書1:26~38 (2010-12-19)

「すべては神さまの御心のままに」これほど簡単に喋り、これほど重い言葉がないことをご存知であろうか? だが、私達は余りにも軽く喋っている。 人間とはそう簡単に手を離す生き物ではない。 人間とは実に、自分が握っていたい、離せない生き物である。 宜しいのですか?どんな不条理が訪れても・・ 構わないのですか?如何なる厳しく悲しい出来事が起こっても・・・

もし、「すべては神さまの御心のままに」と言うなら、人はすべて自分の思いや願いをあきらめて神に明け渡すのである。 「こうなって欲しい」とか「是非そうならなければならない」といった思いは、微塵もあろう筈が無いのである。 信仰によって求め祈ることと、主の御心にすべてをまかすことは、皮肉にも同居していると思う。 イエスさまがゲッセマネの園で祈られた祈りから、それを学ばされる。 「主はこうなって欲し」「そうならないで欲しい」と祈られたが、 イエスの最後の祈りは「しかし、すべて天の父の御心を為し給え。」であった。

マリヤの前に突然現れた御使いは、これから彼女の身に起こるであろう出来事を伝えた。 彼女の不安も疑問も受け付けられなかった。 立ち入るであろう否定の一切を受け付けなかった。 まさに、マリヤの人生に神は強行に突入された、のである。

処女に赤ん坊が生まれる。 実に前代未聞である。 しかし、私達クリスチャンは既にそれを信じている。 信じる我らがアホなのか、信じさせた神がすごいのか・・・ だが、私達は間違いなく、あきらかに信じている。決して、アホだからではない。 それは、聖書の神が唯一、まことの生きて働く神だからである。

マリヤでなければならなかった。 清純で純潔な乙女、しかし強い信念と信仰に生きる女性、更に「いいなず」はダビデの家系に属する信仰深い男性であること。 権力も地位も、金も名誉も神の秤と物差しには無かった。 マリヤだけがイエスの母たる資格があった。 メシヤの母は、地上で唯一、マリヤだけが持つ資格であり、称号であった。 一説で13歳とも言われる少女マリヤの言葉が胸に痛く沁みる。 「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」 彼女はあらゆる意味において、地球上で唯一の体験を強いられた人だった。

『主の素晴らしさを味わい見よ』という言葉が詩篇34編にある。 主をテイスト、味見しなさいと言う。 体験しなさいと言う。 頭で考えるだけでなく、人生と、心と、身体と舌で味わえ、と言う。 そうすれば、私達は神をまことに知るから、と言うのだろう。 マリヤは「どうか、この身に起こりますように」と言った。 「この人生で・・」とか、「私を通して・・・」ではなかった。 「この身に」である。 そして神は、それを為さった。 遂に・・・クリスマスがやってくる来るのである。

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