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■ 静けさの中に微かな声あり / 第一列王記19章7~15 (2011-10-02)

信仰の戦いに疲れた主のしもべ、エリヤが完全に燃え尽き状態となって一人荒野でうずくまっている。 誰も来ないはずの場所に絹が擦れる感じがした。 その方は彼の頭のところに水とパンを置いて言われた。 「起きて食べなさい。」 エリヤはそれを少し食べ、また横になった。 しばらくして主はまた戻って来られ、今度は彼に触れて言われた。 「起きて食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」

美しい場面である。 但し、エリヤだけの問題ではない。 普通の暮らしの中に生きる、私達とて同様である。 思ったことが、願ったことがはかどらない。 何をしても思い通りに行かない。 考えてみれば、自分さえ思ったとおりに生きていない。 疲れた。すべてのことに。

しかし、目を上げてみよ。 神はあなたの枕元に水を置いてくださるのだ。 あなたに触れて声を掛けてくださるのだ。 それを感じられない、見えない私達だけなのだ。 「あなたの旅はまだ遠いのだから。」 さあ、頭あげて「永遠の命の水」をいただこう。 幾ら呑んでも渇く、この世の水ではない水を。

人生は旅路である。 何十年も掛けて歩む旅路である。 晴れた日もあれば、曇りの日もあり、嵐だってある。 暖かい日もあれば、寒い雪の日だってある。 そして色んな人に巡り合う。 たまには罠もあれば、心ぬくもる人にだって会う。

そして、この世は、私達の永遠の住処ではない。 本当に束の間だけ留まる寄留民のようだ。 だが、私達は錯覚する。 この世こそ、人が生きて住むに相応しいと。 確かに生きていることは素晴らしいし、大自然は美しい。 だが、この世は儚い。 何事も夢の様に過ぎ去ってゆく。 いや、この世が儚いのではなく、人間そのものが儚い存在なのであろう。

エリヤは、なぜ、こうなってしまったかを神に言い繕った。 その言葉の中に、「私だけが生き残った が・・・」という部分が共有できる。 「私だけ・・・」これが私達の弱さの要因である。 「自分だけ」これはある意味、事実である。 しかし、そう思った瞬間、必ずや自己憐憫に陥ることを覚えよう。 確かに自分と完全に同じ状況の人はいないかも知れない。 だが、落ち込んでしまって重石を引き摺って生きている人は幾らでもいる。

だから、もう一度だけ起き上がろう。 日は沈んでもまた明日になれば、必ず昇ってくるではないか。 生きるとはそういうことなのだから。 立ち上がろう。 苦しみ悩むこと、そのこと自体、決してあなただけではないのだから。

静かな場所で、心静まって密かな声に耳を傾けよう。 爽やかな風か、神の息か、頬に触れてそよぐ空気の中で神の声を聴けるのだ。 「さあ、起きて食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」

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