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■ 勇士よ / 士師記6:1~16 (2012-02-05)

最近読んだ新聞から・・・ 「隠岐の島」をレポートした記事は、かの地で特に伝統的なもので牛と牛を戦わせる「牛つき」に関する話に感動した。 それは負けた牛が涙を流すということだった。 まさか・・・と誰もが疑うであろう。 しかし、それは事実だった。 勝負の後に涙を流すのは、どれも必ず負けた牛だったからだ。 「牛が涙を流す。」悔しいからか、悲しいからか。 私は後者の様な気がする。 だが考えさせられたことは、牛でさえ涙を流すのに、私達クリスチャンが信仰の戦いにおいて立つべき場所に立てず、負けたとき、悔しくて悲しくて涙を流したことがあるか、と問われると・・・果たしてどうだろう。 せいぜい少しの時間、落ち込むのが関の山かもしれない。

遠い昔、イスラエルにまだ王がいなかった時代、群をリードするのは聖書が士師と呼ぶ人達であった。 腕力か、カリスマ性か、信仰の力か、そういう特別な強い力を神から授かった人が現われては消えた時代があった。 サムソン、エフタ、読んでいると非常に面白いストーリーであり、映画の題材にもなった。

ギデオンのお話し、実に意味あるストーリーである。 ギデオンから教えられること、それはクリスチャンの人生にとり実に身近なテーマがある。 ギデオンは12部族の中でマナセ族に属していた。 士師の時代、イスラエル民族は神への信仰において実に曖昧な時期であった。 故にこそ士師と言う「裁きつかさ」であるリーダーが必要だったのであろう。

イスラエルは周囲に住む様々な民族に生活を脅かされ、安心して住める状態ではなかった。 ゲリラ戦のように、いなごの大群の様に現れては畑の作物を奪い、誠に頭の痛い生活が続いた。 しかし、それもこれも元はと言えば、イスラエルが神を神とせず、カナンの地の偶像を拝んでいたからである。 神は他民族の侵略によって、イスラエルが神に帰ることを願っておられたのである。

そんなある日、若き敗残兵は小麦を打っていた。 そのギデオンに向かって主の使いが声を掛けられた。 「勇士よ。主があなたと一緒におられる。」これが第一声であった。 ギデオンは即座に答えた。 「もし、主が私達と共におられるなら、どうしてこの様な人生なのでしょう。」

そして私達に向かって主が同じ様に、声を掛けられるのであろうか。 「勇士よ。」 そして私達はギデオンと同じように応えるのであろうか。 「もし、主がご一緒なら何故この様な生活があり、そして問題を負うのですか。」 「もし、主がご一緒だとしたら、どうして明けても暮れても負け戦ばかりなのでしょうか。」

随分昔であったが、私の生活もそういう場面があった。 「主よ、本当にあなたが神でしたら、どうして私に力を下さらないのですか。」 だが、その頃なぜか主は応えて下さらなかった。 しかし、ずっと後になって分かったこと、主はあの時も私と共におられたのである。 私一人の力で勇士と呼ばれるに相応しいものは何もない。 しかし、主が共におられるなら、私も勇士である。 当然、あなたも勇士である。

応えて下さらなかったのではなく、私の耳が神さまの御声を聴ける状態ではなかった。 今も時としてそういう時が少なく無い。 あなたはいかがであろうか? 主に向かって叫び祈るにせよ、願い求めて祈るにせよ、主のみ言葉を聴き分ける耳が整っているだろうか。 インマヌエル(主我らと共におられる。)はクリスチャンにとって、誠に近き方である。 だから、祈るはその方に向けて祈り、聞くはその方の聖書を通して語られる言葉である。 そこにこそ、勇士の勇士たる歩みが始まるのだから。

まさにギデオンは私達そのものであった。 弱さも一人よがりもギデオンそのものである。 勇士よ、決してオーバーな表現ではない。 主我と共におられるから、当然なのである。 問題は勇士として自覚し、勇士として生きているか、だけである。

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