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■ この測り知れぬ富 / エペソびとへの手紙3:1~19 (2012-04-22)

パウロという人は、何故あれほどの苦労と困難を押しのけて、イエスのことを伝え広げられたのか? 現代の私にとってもやはり謎である。 勿論、彼の後、多くの教父、宣教師達も命を失い、辛酸を嘗めつつも世界の人々へイエスを伝えた。 命を賭して・・・本当にそれだけの価値が有るのだろうか?と思わず考えてしまう不信仰者である。 だから、有るか無いかではなく、それ其のものに押し出されたとしか言い様がない。 価値云々というか、値段をつけようもない方こそ、イエス・キリストであり、文字通り「宝」であり「富」なのである。

パウロは彼自信、御霊なる神から特別に与えられたものがある、と言った。 イエスが十字架で死なれ、3日目に甦られたことにより、昔から知ることが出来なかった秘密のベールが取り除けられたと言うのである。 以上のことを日本語聖書では「奥義」と訳したが、意味がずれていると思う。 通常考える奥義というより「神秘」と表現すべきであろう。 奥義と解釈するならば、人間の努力、又は並みで無い特別な修練を積めば得られるからだ。 だが神秘とは人の働きとか力ではなく、神が選んだ者にだけ明らかにしてくださることである。 英悟ではそれをミステリーと訳した。この方が近いかと思う。 つまり、今や我々凡人にさえ、その神秘を神が明らかにしてくださったのである。

パウロが神から与えられた神秘とは、もしイエスを信じるなら異邦人であっても神の民となる。 まさに、この福音こそが「測り知れない富、宝」であると、パウロは知った。 この地上に如何なる宝の山があろうと、仮にそれを手にしようと、その人が死んだなら彼にとって宝の意味は最早失せる。 しかし、キリストを信じることのミステリーは死んでだ後にこそ、更に大きな力を発揮する。 どの国の人であろうと、神の国に入れる。 旧約時代を知るパウロであるからこそ、その神秘の意味と価値を知った。 私達の様に、信じたら救われましたという程度の話ではない。 パウロにとって、まさに天と地がひっくり返ったのである。

パウロが命を賭けて広めた「その測り知れぬ宝」の力とは・・・ 1、 それはあなたの霊と魂を救う。 2、 それはあなたにとって神の国の玄関口である。 3、 それはあなたに人生の真の意味を教える。

私達は余りに簡単に手に入れてしまった宝であるが、その宝の重さをよくわきまえねば、宝の持ち腐れどころか、みすみす手に入れた宝でさえ失くし兼ねない。 問題は宝を手に入れたことと同様に、いかにその宝を用いて増やすか、である。 金は使えば減る。 だが、この宝は用いることをしないと減るし、無くなる。 地面に穴をほってタラントを隠しておき、主人からこっぴどく叱られた人の話がある。 この宝を使い、役立て、眺め、真価を知り、他者に分け与えてこそ、あなたの宝は益々増え続ける。

改めてこの宝を見詰め直し、考え直す必要があると思った。 エペソびとへの手紙3章18~19節 『すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。』とパウロは書き残した。 安藤仲市先生はそれを次の様に解釈した。 「広さとは寛容であり、長さとは忍耐であり、高さとは犠牲であり、深さとは憐れみである。」と。 アーメンである。 それは「キリストさま」その方である。

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