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■ 彼だけが道である / ヨハネ14章1~6 (2012-05-06)

『あなたはキリストに対して忠実に生きておられますか?』 と、問われてあなたはどう答えるだろう。 「まあ、程ほどに」などと言った答えは通用しない。 「そうですねえ、60点位でしょうか。」これも無しである。 「甘く見て90点くらい・・・?」有り得ないのである。 つまり、ゼロか100かと聞いているのだ。 それがクリスチャンの答えるべき基本的立どころだと思う。 面白いことに、仮に「100点です!」と言ったところで、その人はおそらく完ぺきに「マイナス」に転落していると思う。 これもクリスチャンの位置である。 私達は皆、キリストの十字架の下に膝を折らねばならない人生であるからだ。

第一ヨハネ1章7節『イエスの血、すべての罪から我等を潔む!』 聖書に無いしるし「!」を思わず書き入れたくなることばである。 本当にそうだと思う。 私はクリスチャンになって10年した頃か、つくづくそう思った。 と、言うより認めざるを得なかった。

フランシス・トムソンという19世紀の詩人の言葉を見つけた。 「・・・・あなたの悲しみが、あまりに耐え難いとき、泣き叫びなさい。 そのとき、あなたの悲しみの故に、天国とこのチェアリング・クロスの間にヤコブの梯子が輝くのです・・・・ 夜のしじまに、わが魂よ。 ・・・・わが娘よ。泣き叫びなさい。天の裳裾にすがりついて・・・・ そのとき、見よ。 キリストはゲネサレの湖ではなく、テムズ河の上を歩いて来給うのです。」

重いアヘン中毒患者であった彼は、この世の泥沼の岸でもがき苦しんでいた。 彼を虜にしたアヘンの力から、どうやって抜け出たのか? それは、テムズ河の河畔の盛り場チェアリング・クロスにさえ、キリストの梯子が下されたからだ。 すべての罪から我等を清めるのは、イエスの血のみである。

すべての人は新しく生まれ変らねばならない。 「水と御霊によって、」と主は言われた。 「新しく生まれ変らねば、神の国を見ることは出来ない、」とも言われた。 現代の私達ももう一度、ニコデモの問い掛けをすべきであろう。 「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」 何とトンチンカンなニコデモか、と言って笑える私達ではない筈だ。 この人生は生まれ変るためにある。 取り組み、失敗し、挫折し、顔を泥だらけにしたとき、人は自分の無力と罪深さに気がつくのだろう。 その瞬間、人は生まれ変ることの意味を知る。 自分で何かが出来る、と思っている間、実際人は何も分かっちゃいないのである。

「わたしが道であり、真理であり、いのちである。 誰でもわたしを通してでなければ、父のみもとに来ることは出来ない。」ヨハネ14:6 主イエスは「来ることはできない」と言われた。 イエスは地上に在りながら、天の父の右座におられる。 そして、ここに大切な真理がある。 つまり我々は、この人生の中でさえ、イエスを通して父なる神のみもとに居続けられるということである。

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