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■ 仮にあなたがうなじの強い者であっても / ルカ5:1~11 (2012-05-27)

私はここ二週ほど礼拝説教を休ませていただいた。 おかげで喉は随分楽が出来たし、神学生お二人とは良き交わりと共に、フレッシュな思いと希望に出会えて主に感謝した次第である。

「うなじのこわい民」と聖書がいう時、それは強情で神に心を開かない者、という意味がある。 すると、人間世界を見渡して果たして「うなじのこわくない(柔らかい)」人がいるのだろうか、と感じてしまう。 私がうなじが強い者だから、きっと皆もそうだとは思ってはいない積りだけれど、やはりそう感じてしまう。 人の性格はそれぞれあるけれど、その相手が神さまとなった場合、心から進んで真っ正直に生きて動いた人を見たことがあまり無いからかも知れない。

遠い昔、イスラエルの民に向かって語られた主の言葉を思い出す。 申命記9章5~6節 『あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。 知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。』

ガリラヤ湖の朝、シモン達数名は夜通しの漁にも関わらず、一匹も魚が取れず、仕方なく岸辺で網を洗っていた。 イエスを目当てに集まった群衆はイエスに「押し迫る様にして」聞き耳を立てていた。 イエスは余りに大勢の人たちが迫ったので、シモンの小舟に移って座られ、岸辺に向かって神の国を説いておられた。 暫くして、イエスがシモンに言われた。「シモン、沖に漕ぎ出して、もう一度深みに網を降ろしてみなさい。」

イエスの言葉にシモンは耳を疑った、と私は想像する。 「先生、俺たちは一晩中網を打ったんですぜ。それでも雑魚一匹取れなかった・・・・・。 でも、先生のお言葉だから、もう一度やってみましょう。」とシモンは沖に漕ぎ出した。 そしてシモンたちは『そのとおりにすると』、大漁となり舟は沈みそうになった。 一緒にいたもう一艘の仲間の手助けを得て、ようやく岸に辿りついたとある。 ところがシモンはイエスの前に身を伏して言った。「先生、俺の様な罪深い者から離れてくだせえ。」

ルカはここで記述している。 ――それはあまりの大漁のため、シモンたちはひどく驚いたからである。――

そこで仮に私がシモンであったとしたら、いかがであったろうかと考えた。 果たして、大漁ゆえに口から飛び出した言葉であり、地面に伏した行動だったのか、と。 冒頭、イエスに言われたとき、シモンの心をどんな感情がよぎったのかを想像した。 ・・・・・・先生、これほどの群集の前で、そんな大それた事を喋ってしまっていいんですかい・・・ ・・・・・俺たちはこの漁場で育った本物の漁師ですぜ。いくら何でも貴方は大工じゃありませんか・・・ ま、分かりやした。折角のお言葉ですし、とりあえず貴方のお顔を立てて・・・・・ 仮にそういう感情がペテロの思いだったとしたら、地面にひれ伏して口をついて出た言葉の意味が実に理解できるのである。 つまり、私自身がシモンの立場であったとしたら、そういう感情が走ったことを実際認めるからだ。

この朝、イエスは私達に幾つもの教えを意味づけてくださった。

先ず一つ目、「沖に漕ぎ出し、深みに網を降ろしなさい。」とは、主のみ言葉、ご命令である。 シモンが毎日繰り返して来た行動とは違う意味合いがあるのだ。 主が思し召しなら「敢えて・・」「そう思えなくても・・・」網を深みに降ろすべきである。 網以外に、私達は日々従うべき場面が限りなくあるのではないだろうか。

二つ目、神さまは「シモンの職場を用いて栄光を現してくださった」のである。 そこは決して特別な場所ではなかった。 コンサート会場でもなく、神殿でもなく、セミナーでもカンファレンスでもリバイバル集会の会場でもなかった。 そこはシモンが日々訪れる見慣れた場所であり、何の変哲もない場所だった。 それでも、神はその場所で栄光を現されたのである。 主が共におられるなら、どこであろうと神は栄光をもたらされる。 果たして私達は自分の職場に対して、そういった可能性と感情を持ったことがあるだろうか。

三つ目、イエスのご目的は「大漁そのもの」ではなった。 シモンが「自ら先ず悔い改め」を体験してこそ、「人間を漁れる者になる」という神の摂理と道理を実現された。 イエスはこの出来事を通して、人間の心の深く暗い闇を群衆の目と白日の下に導かれた。 だが、それは個人を裁くためではなく、人の魂が神に帰るためであり、神が注目しておられることは、魚よりもはるかに価値ある人間の霊性が神に帰属することであった。

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