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■ 先駆者の遺言 / 第二テモテ3:12~4:5 (2012-06-03)

イエスが指名された12使徒は素晴らしい伝道の働きを為し、そして殆どが殉教してこの世を去った。 但し、その中でユダは結果的にイエスを裏切り、自ら犯した咎の重さに耐え切れず首を吊って死んだ。 使徒ヨハネはパトモス島に流されそこで黙示録を記した。 この二人以外はすべて、イエスを神の子と信じる信仰の故に迫害され、そして殺された。 パウロという人は所謂福音書が指摘する使徒ではなかったが、自らはキリストの忠実なる使徒として認識し、手紙の中で公言して憚らなかった。 そして彼こそ、すべてのキリスト者にとって、信仰の先駆けであり、先駆者である。

その彼が残した書簡、遺言とも言うべきものこそがテモテ第二の手紙である。 遺言であるからこそ、これだけはしっかり伝えようとして書かれた言葉が続く。 彼に死が迫っていた。 ローマの露として儚く消える身ではあったが、彼の信仰は2千年間、そして何億人の数知れない人々を教え、導き、励ました。 長文からなるローマ人への手紙から、非常に短いピレモンへの手紙に至るすべての言葉から漂う香りは、キリストに寄せる熱い思いであり、キリスト者への開かれた思いそのものであった。

手紙の中で彼は執拗にと言えるほど語り継げた言葉がある。 「聖書だけが人に知恵を与え、救い、成長させる」と。 「聖書こそが人に真理の道を伝え、戒め、その考え方を矯正し、訓練を施す」と。 テモテに対して書かれた言葉の一つ一つは必然的に後世の教会と信仰者へのチャレンジであり、信仰の機軸であると思う。

パウロの言葉の一節。 「聖書はすべて神の霊感によるもので・・・」(第二テモテ3:16) この投げかけた一節の言葉は、すべてのすべてであるとさえ思う。 仮にリベラル派であるか、福音派であるかなどという見方は無用である。 聖書すべての言葉が、神の霊感すなわち御霊の導きによって書いた何十人、いや何百人に及ぼうとも問題はない。 聖書は人間が興味と好奇心を燃やす学問の矢面に立つべき責任など皆無であるからだ。 何よりも「神の御霊によらねば、聖書そのものが理解出来ませんよ。」と仰っているのだ。

あなたにとって、私にとって「神は絶対なる方であるか?」と自問し、そして問いたい。 パウロはそういう所に立ってこの手紙を書いている。 彼と問答したければ、彼と同じ土俵に立たずして、討論は始まらない。 神を絶対なる方と見ることにより、あなたにとって神は神である。 JAMES・DOBSON博士の言葉がある。 「私達の言うが儘になってくれるから、主に仕えるのではなく、私達の人生における主の絶対性を信頼するからこそ、主に仕えるのである。」

天の父は何と寛容なお方であろうか、とつくづく思う。 仮に私達がどんな信じ方をしていようと、主は文句をつけられない。 どんなクリスチャン生活をしていようと、直ちに打ち滅ぼされもしない。 ひたすら、私達の思いと選択を優先しておられるようにさえ思う。 ふと振り返って我が身の信仰に向かい合って見れば、神は神であるのに、実際は絶対なる方としていないという、実に不思議で如何ともし難いアンバランスを見てしまう。

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