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■ 祈られる子は幸いなり / エペソびとへの手紙6:1~4 (2012-06-10)

有名なモーセの十戒、モーセを通して神さまから与えられたの10の戒め。 その神さまは通常日本人が考えるカミではない。

日本神話の原点として描かれたカミでも、神道のカミでもなく、唯一生きておられる主なる神である。 十戒の四つ目までは神と人の直接関係を基準に語られた。 しかし五つ目からは人間社会における戒めである。 そこには道徳、規律、個人生活の保護、家族に関して基盤となる戒めがある。 人は人としての尊厳を持ち、犯してはならない他者の領域があることを知るべきである。 そのことが互いの暮らしを守り、守られることを保障するからだ。

十戒の五つ目に登場する戒めは「あなたの父と母を敬え。」である。 家族が家族たるは、先ず親を親として尊敬することから始まると 十戒は述べる。 そして新約聖書、エペソ人への手紙では、「父たる者よ、子供を怒らせないで(焦らせないでとか、反抗心を持たせないで等々)主の薫陶と訓戒によって彼らを育てなさい。」とある。 つまり、一方的に子供を親の意のままに扱ってはいけないし、子供を王様の様に崇めてもいけないとある。

創造主を信じない日本国民は確かに右往左往しながら、時代の価値観で子育てをして来た。 戦前は厳し過ぎ、戦後は甘過ぎだった傾向があった。 聖書に基づいて育てられれば、そして親を尊敬する家庭であったらと、つくづく思う。

ある本にこういう記事があった。 人が家庭人、社会人として当たり前の人間性を持った大人になるためには、家庭も学校も、社会にも責任がある。 子供たちが受けるべき教育を大きく四つに分けて考えさせられた。

体を鍛える「体育」。 知恵、知識を養う「知育」。 他者を思いやり、そして自分を大切にする「徳育」。 神を畏れ、神に愛される人間性のために「霊育」。 いかがであろう。 私達は上記4つを満遍なく受けながら育っただろうか? 若しくは、自分の子供たちに公平に与えたであろうか?

上から二つくらいは、とりあえずであっても受けたかと思う。 しかし、徳育されただろうか? ましてや霊育されたであろうか? 創造主を信じない、知らない親にそれらを求めても、それは酷としか言えないのである。 キリスト者の教師が圧倒的に少ない日本を考えれば家庭も学校も出来ない教育の主翼であろう。 立派な人生の何たるかはすべて、親の価値観で計られて来た次第である。 キリスト者の意見、主張はこれほど重いのである。

六月の「子供祝福式」において祈りつつ、幼子の人生観がどうか聖書とクリスチャン両親からの薫陶によって徳育、霊育がなされること、そして教会と教会学校の教師達に期待したい。

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