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■ 彼をどこに置いたのか / ヨハネ11:18~44 (2012-09-30)

イエスには心おきなく交流の出来る一つの家族がいた。 それがべタニヤ村に住む三人の兄弟姉妹であった。 ラザロ、長女のマルタ、次女のマリヤ、この三人もイエスが訪問されることをいつも心待ちにしていた。

あるときラザロが病に冒され、数日伏せっただけで急逝した。 ラザロの危篤はイエスにも伝えられたが、イエスは敢えて直ぐに出向かなかった。 それはイエスだけが理解する計画があったからだ。 やがて数日経って後、イエスはベタニヤ村を訪れた。 イエスを見たマルタは言った。 「先生、どうして今日なんですか? もう少し早く来て下されば、兄は死なずに済んだのに。」 そしてマリヤも彼女と同じ事を言って嘆いた。

ここに人間の死という宿命は、キリストをもってしても覆らないものであるという理解が語られる。 ラザロの死、そしてイエスの訪問、マルタとマリヤの信仰において、現代に生きる私達クリスチャンへのチャレンジが為されていることを考えると、少なくとも3つのことが考えられる。 先ず一つ目、 イエスを信じるということの意味である。 それはイエスを信仰するということであり、イエスにより頼むことであり、イエスによりすがることである。 私達は「信じている」と簡単に言うが、その言葉の持つ中味はこれほどに深く広いものである。 言えることは『信仰の原点を見落としていないか』ということだ。

二つ目、 彼女達はイエスを救い主として認めてはいたが、所詮イエスという方は、やはり尊敬する主でしかなかった。 つまり、イエスであろうと可能な範囲と、限界がある、ということである。 彼女達の思いを知って、私達は決して笑える立場に無い。 それは私達であれ、「神にも限界がある」と理性的に決めてかかっているからだ。 そこで与えられるチャレンジは『人は神に対して、例えこれっぽちであろうと、限界という枠を嵌めてはならない。』ことである。

ラザロの死と家族と近所の人たちの泣き叫ぶ姿を見て、イエスの心は激しく動揺した。 イエスはマルタに問うた。 「ラザロを何処に置いたのか?」 マルタが答えた。 「主よ、兄弟が死んでから既に四日です。もう臭くなっておりましょう。」 イエスが言われた。 「マルタよ、だからあれほどに言っていおいたではないか? 神を信じれば、貴女は神の栄光を見る、と。」 イエスは岩戸の前に立ち叫んだ。(と、私は思う。) 彼は会話の様な単調で、静かに言ったのではないと。 おそらく両手を広げ、ラザロの遺体に向かって大声で叫ばれた筈だ。 「ラ、ザ、ロ、よ!いで来たれ!」 ラザロは包帯で全身をグルグル巻きにされていたので、両足でピョコン、ピョコンと出て来たのかも知れない。 さて、三つ目をしっかり心に刻んで今からを生きよう。 『私達は神を信じるなら、私達が神の栄光を見る。』ということ。 ああ・・・私達はどれほど場面で主の不思議なみわざ、栄光を身落して来たのだろう。

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